[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.055 美しさに対する価値観みたいなもの

 

「真実と向き合うためには 一人にならなきゃいけない時がある」

 

三文小説 / King Gnu

 

 

 無気力で、なんにも出来ない。それでも容赦なく過ぎていく時間と、それに取り残された気になる私がいて。結局のところ私は何も出来ないでいる。何もしないことを続けている。これは決して自己否定なんかではなくて、自身を客観的に捉えた時に発生する煙みたいなものだ。宙に消えゆく煙、いなくなった後もしばらくそこに残留する臭気。あぁ下らない、全くもって下らない。それでも、こういった無意味な空想の中を泳いでいる時だけは、素直に楽しいと思える。

 

 それだけが唯一の救いだった。救いに救われ続けている内は、その救いから逃れることは出来ない。救いに、救われることに、双方に依存している状態だ。そもそも我々は救われなければならないのだろうか?なぜ救われたいと思うんだろうか?それはきっと、苦しいと思い込んでいるから。苦しみから逃れようと必死に這いつくばって生きているからだろう。どうして苦しいままではいけないんだろう。どうして苦しみは、どこまで逃げても追いかけてくるんだろう。僕たちの痛苦や辛苦や病苦を絶対数として可視化出来ないことが一つの原因として考えられる。人には人の苦しみが、十人十色の苦悩があって、その色彩は当人にしか判別することが出来ない。その点において他人は全員色盲だと思った方がいい。当の本人ですら、苦しみの色を認識出来ていないことが多い。一旦冷静にならないと正確に判別することは難しい。そんな繊細な苦しみを他人が正確に理解出来るハズがない。そう頭ではわかっている筈なのに、我々は他人に期待してしまう。これは非常に愚かで滑稽である。

 

 前提として、人間は愚かで滑稽な動物だ。だからこそ私たちは自分自身、他人、世の中、それら全てに期待してしまう。そして、敗北する惨敗する絶望するんだ。

 

 先日、マクドナルドでテイクアウトを済ませた私は、出入口ドアへと歩みを進めていた。そのドアは中間に余空間がある二重構造になっており、私は一枚目のドアを開けた。すると対面のドアから推定10歳ほどの少女が入店してきた。基本的に何事も先を譲ることを自分に課しているので、私は少女が通れるように率先して余空間へと身を寄せた。しかし少女は動かない、こちらへ向かってくる気配がまるでない。はて?と思い少女を見遣ると、その小さな身体から伸びた両腕を存分に使って大きなドアを開けていた。そう、私の為に開けてくれていたんだ。譲り合いと譲り合いが衝突して、一つの大きな温もりになった。「ありがとうございます」と会釈をしながら少女の優しさを享受して、わたしは店を後にした。

 

 本当にとても温もりを感じた出来事だった。干からびた心に少しだけ潤いが与えられた気がした。この時、私は温もりの少女に対して寸分の期待もしていなかった。だからこそ感じた温もりであり、少女への感謝である。期待がないからこそ良い意味で予想を裏切られる。逆に言えば、期待してしまうから、悪い意味で裏切られたと感じてしまう。元をたどれば良いも悪いも裏切りも、自分自身が生み出した身勝手な解釈に過ぎない。

 

 だとすれば、もういっそ何もかもに対して期待しない方がいい。何もかもを諦めて、期待心は廃棄処分してしまう。そうしてしまえば、生活の中から悪い意味での裏切りが消える。

 

 [自分はこれだけのことが出来る人間だ]よりも[自分はなんも出来ない人間です]と諦めて気楽にしている方が周囲の人間も親しみやすい。何か大きな失敗をしてしまっても、「なんにも出来ない人間だから仕方ない」の一言で終止符を打てる。そこに負の感情は必要ない、自分自身を責める必要もない。だって、そもそも最初から自分に期待していないから。他人に不快な発言や態度をとられたとしても「あらま」の一言で蹴散らす。相手に対してこれっぽちも期待なんてしてないから。何よりも、反論や口論をして他人を変えることなんて不可能に近い。「人を動かす/D・カーネギー著」にも自分が変わることによって、他人が変わっていくことが明記されている。結局はそんなもんだ、世の中。いつだって、冷静で少し心が死んでいるぐらいの人間が強い。何事にも一々反応しない。反応しない為には期待しないことが何よりも重要だろう。

 

投げやりでもいい、思い切ってやめてしまおう、その期待を

もう少し楽に生きよう