[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.020 アベルが見たはずの走馬灯

 

 もしも、この病気が無かったとすれば

 

 もしも、両親に恵まれていたら

 

 もしも、良き理解者が存在したなら

 

 もしも、歪んだ解釈を正すことが出来れば

 

 もしも、もう少しだけ愛の温もりを感じることが出来るのなら

 

 


 

 妄想も度が過ぎれば病気と成ります。都合の良い理想論を次々と並べ、時間を忘れて思慮を重ねる。列をなした理想論はドミノと同じ原理で瞬く間に倒れてしまう。それでも立ち続ける微かな理想は、一体どんな表情をしているのでしょうか。完全欲への囚われ、そして”かくあるべき”という認知の歪みが繊細な人間の首をジリジリと締め上げるのでしょう。理想はあくまで理想であって、決して現実ではないんです。理想と現実の差を埋めるべく、試行錯誤を重ね、日々鍛錬に励むその姿はさぞ美しく映ることでしょう。しかし、私たち人間は欲深い生き物です。理想に追いついた時には、さらに遠くの場所へ異なる理想が形成されていることがある。そうなった場合には、またその理想に向かって歩き出す。傍から見れば、それは素晴らしい人生のように、出来た人間のように感じるでしょう。しかし、他人は気付くことが出来ない、当人しか感じることのない断定的な苦しみが、そこには存在しています。手段が目的にすり替わってしまう。狭窄的となった視野が、自分自身の心を圧迫することになる。そんなことでは本末転倒、何も意味を成しません。

 

 完璧を求めるがゆえに付きまとう不安。それは漠然としたものではなく、極めて明確な不安。それを払拭しようとすればするほど、身体中に纏わりついて離れてくれない。生きている限り不安感情というのは傍らに存在している。といっても”其れ”を作り出しているのは紛れもない自分自身であって、自分自身が作り出すからこそ、その不安はとても怖ろしいもののように感じてしまうのです。逃げても逃げても追ってくる、不安サイドからすれば最早追う必要すらないのかもしれない。だって、わたし達は常に表裏一体となっているのですから。となればどうすればいいのか、もう現在の何もかもを受け入れるしかありません。自身の内部に存在しているもの(主に感情)に関して私たちはどうすることも出来ない。どんな形の苦しみでさえも抗えば抗うほどに引きずり込まれる。だとすれば、もういっそ身を任せて生きてみる。例えば、何もかもが駄目になって崩れ落ちてしまった時には、その後は人生そのものさえも諦めてしまえばいいか。そう思い切ってしまえば、心が少しだけ軽くなった気がします。これは極めて前向きな、一種の諦念であると思っていて、”なんとかなる”、きっとそんな感じでいいんです。

 

 理想と現実の差異に落胆することもあると思います。しかし、いくら落差があれど、理想が正義で現実が悪という訳ではありません(場合によっては、理想が悪で現実が正義かもしれない)。タラレバ幻想に殺されないように、慎重且つ大胆に"生"を送りたいものです。そして、”~でなければならない”といった思想論を現代から撲滅させたい。もっと自由でいいんです、もっともっと情けなくてもいいと思うんです。現実の君もそこまで悪くないのではないか、理想像が輝かしすぎるからこそ、現在の自分自身が霞んでしまう。もう、頭の中だけで輝くのは止めにしませんか?光らなくてもいい、くすんでいたってそれが君自身なのですから、それはそれでいいじゃないですか。「人は長所に魅かれ、欠点を愛する」となにかで読んだことがあります。飛び切り不器用な欠点を大切にしていく。欠けていたっていいです、欠けているからこそいいんです。だからこそ堂々と声を上げて、生きて。

 

 

最も手軽に不幸になる方法は 自分と他人とを比べることです。

 

その”他人”には理想的な自分自身も含まれると思っています。

 

優劣を生み出した時点で、私たちの個性は沈んでゆく。