[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.046 生きる意味とか理由とか

 

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 「僕は、正月がとても苦手だ。」

 

 いつからそう思うようになったのだろう。それは実家を飛び出して一人で生活を営むようになってから、より強く感じるようになったのだと思う。幼き頃は、寧ろお正月が大好きだった。自家用車で年末の買い出しに行くのがとても楽しかった。何よりもお正月はお父さんが家に帰ってきてくれる、ただそれだけで気持ちが昂った。数の子やお餅を食べながらテレビ番組を観ることに幸せを感じていた。

 

 現在となっては良き思い出であり、同時にその思い出に苦しめられている自分がいる。まだ第一人称が「俺」だった未熟な少年が、時を経て自分のことを「僕」と呼ぶ枯れた青年になった。”俺”が”僕”に変わりゆく流れの中、一人暮らしを始めた。生活を搾取され続けるような日々に激しい嫌悪感を抱いた僕は、居場所は自分で作るしかないと思った。それと同時に歪んだ家族コンプレックスが花を咲かせた。物質的に居場所を作ることは出来たけれど、精神的に帰家が無い。そんな孤独感が怖くて、寂しくて、僕は他人の温かさに溺れることになった。

 

 上手く泳ぐことが出来ない僕は、沈んでいった。どっぷりと飲み込まれてしまった。人間はとても温かい。こちらが「寒い」と言えば体温を分け与えてくれる、そんな母性みたいなものは、もっともっと温かい。その温かさに心身を浸し続けていると、今までは何とも思わなかった”そよ風”でさえ、体温を奪われるようになった。心の耐久性能が著しく低下した。

 

 独りがとても怖い。孤独が人を駄目にする、駄目な人だから孤独になる。そんなことどっちだっていいんだけれど、一つの単語では現すことができないような不安感がある。心の中に不安が存在しているのではなく、ポッカリと切り取られた心の一部分が嘆いているような、そういった類の不安感。ただ、独りになることが怖かった。

 

 僕の中で正月はそんな孤独感を浮き彫りにする存在であって。[正月=家族で過ごす]みたいな一昔前の先入観が未だに頭を離れてくれない。”今年は実家に帰らない”といった話をよく耳にするのだけれど、帰る場所があるから”帰らない”という選択が出来るのであって、そもそも帰る場所が無い人間に選択肢は与えられない。毎年、毎年、世間が孤独を胸に突き付ける。お正月ムードみたいなものを勝手に自分が受け取って、誤った解釈をしているだけなのだけど、理解していても、それでも苦しさを拭うことが出来ない。

 

 苦しいのなら、その苦しさを受け入れるしかないと思った。今年の抱負は「孤独を飼いならす」ことにします。誰かといることが当たり前の状態から、独りきりの状態をデフォルトにする。物理的に、他人の体温に甘えないようにする。孤独から発生する不安に押しつぶされそうになったとしても、それは仕方がないことだと諦める。押しつぶされてしまえばいい、いっそのこと潔く壊れてしまえばいい。誰からも必要とされていないと思いながら生活を送る。それでいい、寧ろそれが心地好い。

 

 

 毎年正月は抑うつ状態になる。

 それでも僕は、一人で踊り続けなければならない。