[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0112 項垂れたまま罪悪感

 

 

N.0111 傘を持たずに雨の中 - [No.000]

 

 前回に引き続き、今日は身体的にもダウンしてしまった。

 

 定期的に、同じような症状の風邪を引く。クシャミと鼻水が一日中止まらない、身体が物凄く熱くなる、体温を測っても平熱なのに。ビタミン類の栄養を多めに摂取して、普段より長めに睡眠時間を確保すれば、翌日には症状が消え去っている。

 

 今日は文章を休みにして明日に備えようと意気込んでいたが、何故か全く眠れない。とにかく頭が回らないし、身体に倦怠感がのしかかる。読みかけの本を読むことも、思考停止してYOUTUBEを眺めることも、何もかもに飽きてしまった。何も入ってこない、そして眠れない。それならば、いっそのこと吐き出してみてはどうだろうかと思った。

 

 体調が優れない時に文章書くとどうなるんだろう?、という単純な好奇心からデスク前に鎮座してキーボードを叩いている。支離滅裂な内容になってしまう懸念があったけど、案外普段と変わらないのではないだろうか。ということは、普段から文章構成がグチャグチャなのかな、なんて反省会を開く気にもなれないのだけれど。

 

 

 普段は何も感じないのに、こういう時だけ独り身の虚しさみたいなものが強く押し寄せてくる。お粥さん作ってほしいなとか、頭撫でてほしいなとか、苦しんでる自分を横目に笑ってほしいなとか、たくさん願望はあるけれど、それでもやっぱり一番は側にいてほしいなと切実に思う。同じ家の中にいてくれるだけでいい、ただそこに存在を感じるだけですごく安心出来るから。

 

 多分、心が弱ってるからこんなことを想像してしまう。自分は生涯独り身で終える可能性が大いにあると思っているし、相応の覚悟を持っているつもりではある。それでもやっぱりその無力さを痛感するタイミングは必ずあって、そういう時は素直に絶望を味わうことしか出来ない自分がいる。

 

 先日、「もし我々が家から動けない状況になったら、最悪の場合餓死するよな。笑」という冗談ともとれない会話を同じく独り身の同僚としていた。現在はネットスーパーなども普及している為、さすがに餓死することはないと思うけど、それでも家の中で意識を失い倒れた場合などは、そのまま死へ繋がる確率が高くなる。

 例えば、自分が家の中で突然死した場合、どのくらいで発見されるのだろう?みたいなことを考える時がある。日常的に連絡を取っている人はいないから、第一発見者は職場の方だろうか。それが年末年始等の大型連休だった場合、もっと発見が遅れるのだろう。

 発見が遅れれば遅れるほど、自分の存在価値みたいなものが軽くなっていくような気がする。まぁそんなものは完全に気のせいであって、存在価値なんてものは自分自身で評価するものだ。誰かに与えられるものではない。

 

 将来が、老後が、不安だから結婚したいと嘆く人間がいる。その不安を突き詰めると、「仮に自分が介護を必要とするようになった場合、いくらお金があったとしても、全く身寄りのない人間は余りにも虚しい」とのこと。人間を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。こんなものは暴論であって、糞くらえだと思う。配偶者を都合の良い存在にするな。勿論、配偶者が献身的に介護して下さる場合もあるけれど、それを見越しての結婚というのは余りにも打算的過ぎないか。その考え方が何よりも虚しいわ。

 

 自分が~よりも、相手が~という風に未来を想像したい。例えば、愛する人と結婚したとする。将来、愛する人が介護を必要とするかもしれない。そうなった場合でも、「自分はこの人の力になりたい」と思えるかどうか。そういう視点で愛を深めたい。自分は介護出来ないから、配偶者が万全のサービスを受けられるように資金繰りしておく、というのも一つの愛だと思う。

 

 そんなことを考えているから、いつまで経っても独り身のままなんだ、ということは理解している。それでも、妥協して誰かと一緒になるぐらいなら、思想を貫いたまま独りで死を迎える方が幾分マシだ。

 

 

 何故こんなにも怒っているのだろう、

 きっと何もかもが体調不良のせいだ。

 

 誰か、そっと抱きしめてくれませんか?