[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0116 平静を亡くす

 

 あまり怒らないよね、とか

 怒ることあるの?みたいなことを言われる機会がある。

 

 とんでもない、割と怒っている場面が多いと自分で思う。それが自分に対してだったり、赤の他人に対してだったり、世間や社会という抽象的な対象であったりする。種々雑多な怒りの矛先があり、わたしは常に怒っていると言っても過言ではない。

 

 怒り方にも色々あって、派手に大きく怒鳴る人もいれば、静かに言葉で心を抉る人もいる。私の場合は怒りを言葉として発しない場合が多い。基本的に、相手に怒りをぶつけても良い方向に事が進むことは無いと思っていて。憤怒の感情を沸々と煮えたぎらせるイメージで、そのまま心の中に留めておく。そうするとどうなるか、もうめちゃくちゃに腹が立つ。そうなってからが本番だ。

 

 怒らないね、とか言われるぐらいだから心の内に秘めた憤怒が表情仕草言動に表れていないのだろう。学生の頃にはポーカーフェイスと揶揄されたりしたけど、その表情の乏しさが思わぬ所で役に立っているのかもしれない。周囲にバレないことを利用して、怒りを溜め込む。自分の中で段々と怒りが増幅する。そのままでは自分自身がストレスに飲み込まれてしまう為、自身の中で育成された”怒り”をエネルギーとして利用する。怒りは、最強の原動力となる。

 

 ”怒りは二次感情である”ということが定説とされている。悲しみから起こる怒り、憎しみから起こる怒り、恥じらいから起こる怒り。色々な種類の怒りがあって、どれも大きなエネルギーとして利用することが出来る。容姿を馬鹿にされたことで発生した怒りを原動力として、容姿改善に取り組んだ結果、誰が見ても美しいと感じる人間がそこに生まれる。お前には才能が無いと言われ続け、悔しさから沸き起こる怒りを作品に殴りつけた結果、芸術性が開花する。あらゆる怒りはあらゆる分野でエネルギーとして転換することが可能だと思っています。

 

 自分の場合は文章に怒りをぶつけている。楽しいから書いているのが大前提だけど、ただ楽しいだけの愉快な文章には魅力を感じない。だからといって、怒りに塗れた文章は読むに堪えないから、要所要所で蓄えた怒りを露出させる。怒りは最高のスパイスになる。冷静な自分では思い付きもしないような言い回しも頭に浮かんだりする。それを言葉に落とし込む。この作業が何よりも楽しいから、続けられる。

 

 他にも、身体を動かすことによって怒りを発散させることも効果的だと思う。怒りを抱えている時はずっと戦闘モードが続いている状態だから、出来ればその日の内にある程度エネルギーとして発散した方がいい。「絶対殺す」と思いながらジムでトレーニングするもよし、「クソボケが」と呟きながら夜道をランニングするのもよし。そうすると普段よりも重い物を持ち上げられたり、長時間走れたりする。とにかく身体がギブアップするまで動き続ける。身体を動かすと気持ちがいい、怒りの感情に疲労感が上書きされて、最終的にはもう何もかもがどうでもよくなったりする。

 

 なんだか脳筋アスリートみたいなことを言ってしまったけど、とにかく怒りはエネルギーとして有効活用していきたいと考えている。対象者に怒りをぶつける場合も、ある程度冷静さを取り戻してから向き合った方がいい。怒りを秘めた上で、冷静で在り続けること。そんな相反する二つの要素を纏える人間に、わたしは成りたいと思っています。

 

 他人の話しを聞いていると、「なんでそんなことで怒るの?」と思うことが多くて。人には人の怒りがあって、自分の怒りも他者からすれば理解し難いことなのかもしれない。どうしても怒り者同士は衝突してしまうから、私たちは日々平静を装いながら社会に溶け込もうとしているのだろう。それでも降り注ぐ細々とした憤怒に辟易してしまう場面もあって、もう少しだけ上手く生きていけたらいいのにと、分かち合えない私たちは心の扉をそっと閉じる。