[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.094 四第欲求

 

承認欲求 - Wikipedia

承認欲求(しょうにんよっきゅう)とは、「他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」という願望であり、「尊敬・自尊の欲求」とも呼ばれる。 

 

 

 ご存知の通り、人間の中には「食欲」「性欲」「睡眠欲」という根源的な欲求が存在している。これは種の保存を基に遺伝子へとプログラムされている大きな欲求の為、人間の意思で抗うことは難しい。

 

 一字一句明確に覚えている訳ではないが、以前読んだ本の中に「承認欲は第四の欲望である。それほどまでに強く大きな力を持っている。」ということが記されていた。著者曰く、人間の根源的欲求は三つではなく、四つあるとのこと。その第四にランクインしている承認欲求について、今回は考えていきたいと思う。

 

 

 承認欲求って何なのだろうか。SNSが世の主流となった昨今では、悪い例えとして用いられる場合が多いように感じる。「承認欲求(笑)」みたいな感じ。自分自身も、時折見かける度を越した人間に対しては「承認欲求の化け物やん」みたいな揶揄を投げかけたりしている。

 

 しかし、果たして本当にそうなのだろうかと疑問を抱く。ただの悪者として終幕してしまっていいのだろうか?

 

 認められたいと願う欲望、それは何よりも大きな原動力となる。

 

 誰かに自分を認めてもらいたいから行動する。行動することによって、自分自身に変化が起きる。その変化が良い刺激となり、更なる好循環を引き起こす。そうやって気づいた時には認められることなど忘れていて、唯一無二の”私”が作り上げられる。

 

 自分が思うに、”承認欲求”はそこから歩み出す為の良いきっかけを与えてくれるように感じる。強く背中を押してくれるような、そんな頼もしい存在なのだと思う。

 

 大きな力だからこそ、使い方を誤った時には自分自身が負傷してしまう。他人を傷つけてしまう場合だってある。「認められたい」が原動力となり、行動に移すまでは好調子。しかし、それ以降も「認められたい」が続いてしまうと、積み重なったその思いが心の許容領域を侵食してしまう。

 

 承認欲に自分自身が支配されてしまう。いわば、承認欲の奴隷である。

 

 そうなった時には、認められることこそが全てであり、認められない場合には自身の存在価値を喪失してしまうことになる。どれだけ努力したとしても、どれだけ相手に従士したとしても、必ずしも認められるとは限らない。その”対象”が一人ならまだしも、多数いる場合にはもっと難易度が高くなる。

 

 誰からも認められることなど、有り得ない。皆から支持されているように映る偉人、現代を彩る洒落たアーティストにも必ずアンチは存在する。煌びやかなインフルエンサーにも山ほどのアンチがいる。そもそも”インフルエンサー”という枠組み自体にアンチテーゼを抱いている人間だっている。皆から好かれることなど出来ないように、皆から認められることだって、不可能である。

 

 そういうことを考えていると、「認められたい」という事に諦観を持つようになる。承認欲に対して溜め息を吹き掛けている自分がいた。簡単に言えば開き直り、いい感じに言えば価値観の再構築。そして、一つのことに気が付いた。

 

 最も手っ取り早いのは、自分自身が現在の自分を認めてあげること。

 

[認めてほしい部分はどこなのか?どうしてその部分を認めてもらいたいと思うのか?その為に現在上手く出来ている部分はあるか?足りないと思う部分はどこか?それを補うために何をすればいいのか?認められて、その先はどうなりたいのか?]

 

 そういったことを、ノートに一つ一つ書き出していく。誰かに公開する訳ではないからして、自分の頭に浮かんだことを率直に書き記す。ある程度ページが文字の軍勢で埋まった段階で、遠目からその言葉たちを眺めてみる。そういった作業を何度も何度も繰り返す内に、今まで見えなかった自分が見えてくるようになる。

 

 自分の欲望や心の動きが鮮明になったところで、自分の欲望を満たす為だけに行動する。結果に関わらず、行動できた自分を褒め称える。結果が出た時にはもっと褒める。駄目だった時には、駄目な自分からも好い要素を抽出して褒めてあげる。

 

 あくまで、自分の為にだけ行動する。そこに他者を介在させてはいけない。自身の欲求に対して、自己実現の良き友となる。そして、自分自身で認めてあげる。

 

 そうやって、認めることを続けていく姿勢が”自己肯定感”とやらに大きく結びついているのだと私は思っています。

 

 

 自分自身を認められる人は、無敵だと思う。

 

 先ず、自身の価値観に他者が入り込む余地がない為、誰に何を言われても「ふーん、そう思うんや」程度にしか思わない。人生においての行動原則が”自分自身”である為、他人に認められる必要がなくなる。勿論、褒められたりすると嬉しいとは思うけれど、誰にも褒められないからといってそれがマイナスに作用することはない。

 

 そうやって自分に少しばかりの余裕が生まれると、焦りが無くなる。焦りが無くなると、誰かに心を配りたいと思えるようになる。

 

 承認欲は自他問わず満たされることも、満たすことも出来る。人間は、心のどこかで「認められたい」と願っている生き物だからこそ、誰かのその願いに寄り添いたいと思う。”あなたのことを認めます”という心持ちはちょいと傲慢な感じがするので、あくまで寄り添うぐらいがちょいどいい。「認められたい」という思いそのものを認めてもらえる、それだけで幾らか心が楽になる生き物なのです、私たちは。

 

 

 誰か一人に認めてもらえるだけで、

 もう少しだけ私たちは生きてゆくことが出来る

 

 その一人に出会うまでが、

 とても苦しい思いをするのだけれど。

 

 

 

 

解説:わたしはその道の専門家ではなく、専門的な知識を数多く有している訳でもない。あくまで、今回は直感的なわたしの解釈としてご一読いただけると有り難い。明度は限りなく低いかもしれない、抽象的な表現が多く見受けられるかもしれない。それでもいいから、書き記したいと思った。これも立派な承認欲求なのでしょうか?