[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0459 色濃く流れる日々の中で

 

 気が付けば世間では五月病、GWなんて存在しなかったわたしにとっては幻の病である。仕事、嫌いじゃないから全然いいんだけど、流行り病に罹らないから全然全然いいんだけど、心の底が見えなくなる瞬間があって、それが何とも言えずに恐ろしいのだ。立ち止まって周囲を見渡してみれば誰も彼もがいなくなって、まるで自分だけが取り残されているような、そんな錯覚。信じ込めば錯覚は現実に、幻は事実へと変態する。そうやってこれまで精神の病種をたくさん取り込んできた訳で、そうして一人で勝手に苦しんでいた訳で、自作自演の悲劇、観客席は眩しくて直視することが難しかった。

 

 夢。友人と丸一日ドライブしたり、一緒にお酒を飲んだり、可愛い女の子とデートをしたり、メンヘラに追いかけ回されたり。パッと世界が広がった先には白い天井、目が覚めた途端に感じる孤独感。あぁ、寂しい。だから楽しい夢が苦手だった。どこまでも続く余韻がまるで心を締め付けるようで、現実のなかに希望を見出してしまいそうになるよ。こんな時、家に引きこもっていると増殖する鬱々とした雑音、思い切って外に飛び出す。外気、排気ガス、車の音、鳥のさえずり、人の声、人生の主人公、親と子供。なんだかこっちの方が夢の中にいるみたい。わたしの夢はよっぽど現実的なのであった。今日、目を覚ましたことが間違いのように感じられた。

 

 それでもわたしは生きているね。きっとあなたも生きている、そう信じることで何とかこの瞬間に集中している。いつでも親しい人と連絡が取れるようになった昨今、本当に便利で文明に救われたことは何度もあるけれど、たまにこうやって少しだけ、寂しい気持ちになることがある。メッセージを送って、返信があれば、生きている。返信がなければ、生きていない? それでも生きていることの方が、確率としては高いのだろう。スマートフォンが壊れたのかもしれない、ちょっとデジタルデトックスをしてるのかもしれない、はたまたもう全部嫌になって塞ぎ込んでいるのかもしれない。それでも、その人は生きている。一生懸命に生きてる。案外生存確認はあてにならない、いつの間にか嫌われて、いとも簡単にブロックされているだけなのかもしれない。連絡手段が途絶えた時、相手の生死を決めるのは自分自身。わたしが頭のなかで生きていると思えば彼彼女は生きていることになるし、死んじまったと思えば最早対象は死人と化す。もう会えない人、連絡が取れなくなった人、たくさんたくさんいるけれど、わたしの頭のなかでは漠然と皆が「生きている」ことになっていて、だからみんなどこかしらで逞しく人生を形成しているのだろう。みんなみんな、この世界のどこかでは生きている。そうやってたまに過去の人を思い出す、夢のなかに現れる、あの時となんにも変わらないままのわたし達は、静かに現実へと戻っていく。

 

 

 たとえばわたしがいなくなったとしても、訃報が誰にも届かなければ、ずっとずっと、誰かの頭のなかで生きられると思うのだ。報せがなければ、死の可能性は99%以下に留まり続ける。なんにも知らなければ、きっとどこかでなんとなく生きていると思えるのだ。そういう意味では、限りなく広い範囲で寿命を超えた存在になることは、可能なのかもしれないね。なに言ってるんだろうね、いまのわたしは永遠になりたい。