[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0430 散文としての人生

 

 たった一日、今日を生きることだけを考えながら、見えない明日に向かって歩く。息苦しさを感じているのはわたしだけで、嗚呼、世界はこんなにも愉快であった。心のなかに鬱屈を飼っていない人間など、存在しないのだ。誰しもが時として絶望を味わい、救いを求める手のか細さを想う。可愛らしくて、愛しくて、悲しくて、決してつかむことなどできないだろう。それでも尚、生きていかねばならんのだ。いなくなることを許してくれない、そんな優しさにわたしはなりたい。一緒になって落ちてゆくことも、浮き上がることも、自由自在な軽やかさが欲しかった。あなたはあなたのままでいいんだよ、そう言い切れる強さが自分には必要だった。

 

「もうこれで最後になるかもしれない」「これから何かがはじまるかもしれない」、直感や予感は大抵の場合が正しくて、察することによって事前に予防線を張っているのかもしれないね。かもしれない、予測。いついかなる時も可能性を捨てることはしたくなかった。奈落の底からはじまる喜劇を、どこかで期待したまま生きている。だからこうして、書いていて、つくっていて、時には頭を抱え込んで、日々在り方を模索している。人生って言葉を頻繁に使うんだけど、「そんな大げさな」と言って人々は笑う。本当にそうだろうか? 大げさなんだろうか人生よ。深い部分で自分と向き合うなかで、おかしくなってしまったのか、わたし。人は信じたいものを信じる生き物。だとすれば、もうどうしようもなく、わたしは自分のことを信じていたい。言葉も、香りも、心でさえも。なにもかも、そこにある何もかもを。

 

 次々とくたばっていく今日のなかで、あと一日、もう一日とつぶやくなかで、手を繋いで歩いた優しい過去を思い出す。美化されることが思い出の宿命であるとすれば、今日を一生懸命に生きること、悪くないかもしれないと思った。声を出して笑うこと、悪くないと思えるようになった。人との出会い、そして、別れ。当たり前にすれ違っていく時間の流れ、それこそが人生の醍醐味だと思えるようになった。人が変われば、世界はその表情を一変させるだろう。今日はとてもいい天気で、外に出てみればなにも不足など感じない風景が広がる。満ちている、欠けている、もうそんなことはどうだってよかった。今日もあなたが生きていてくれれば、それだけがわたしの救いであった。ずっと、いつまでも、救われている。だからもあと一日だけ、頑張ろうと思うのだ。