[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0388 あなたが好いと思ったもの

 

 知人友人から勧められたこと、本とか映画とか音楽とか、お店とか、場所とか、そういうものをこれまで随分スルーして、なかったことにしてきたなぁ、と思う。わたしのこと、人間性をある程度知ったうえで「こういうのあるよ」と教えてくれているのに、「今度みてみるね」「今度読んでみるね」「今度行ってみるね」と言ったきり手つかずでなにをすすめられたのかも思い出せないのが現状。その度に自分のなかで言い訳がはじまる。「すすめられるたびに買ってたらいくらお金があっても足りないし」「そもそも時間が足りないし」「もっと他に優先することがあるし」、過去のわたしに言うたりたい、アホかお前はなにほざいとるねん、と。

 

 お金が足りないと言いながら意味のないこと、お酒とかジャンクフードとか一瞬の快楽目的のためにジャンジャカお金使ってるじゃん。時間がないとか言いながら酒のんでグダグダ溶かしてるじゃん。優先順位とかいいながら、本当に大事なこと、お前自身を蔑ろにしてきたじゃん。結局、新しいものと向き合おうとしていなかったのです。狭い世界のなかで生きていければいい、そんな風に考えていました。その実は、行動することが怖かったんだね。

 

 先日、友人から一つの映画作品を勧められました。ちょうど数日前に他の知人とその映画について話していたことで、なんとなく運命めいたものを感じた。直感、観に行きなさいと告げられておる。以前からとっても気になる作品だったけど、所詮気になる止まりで、あと数か月もすればインターネット配信が開始されて、それからでも遅くないかと思っていた。けど、いまこの瞬間は二度と訪れることはないのであって、感性の新鮮さを保ち続けることは難しいだろう。過去に、何度か勧められた作品を取り入れてみたことがあったんだけど、それで後悔したことって一度もないんですよね。たとえその作品や場所が自分にあわなかったとしても、後日教えてくれた人と話し合うことができるのです。これだけで自然とコミュニケーションが深まる感覚、わたしは中々に好ましく思うのだった。ならば行動、進め直感でどこまでも。スマートフォンでチケットを予約して、その場でスケジュールを確立した。

 

 不思議なことに、それから作品をすすめられる機会が多くなって、というか自分の意識が変わっただけなのかもしれないけど、とにかく多く感じるようになった。以前より他人と会話するようになったからなのかもしれない。とにかく会話に上がった作品は一度自分のフィルターを通して取り入れてみる。これを自分との約束にしてみると、なんだか感性の幅がどんどん広がっていく感じがあって楽しいのだ。死にたい死にたい言ってただ酒を呷るだけの日常の、何倍も何十倍も愉快なのだ。もう後悔したくないんだ、二度と会えなくなるかもしれないこと、こうやって会話するのが最後になるかもしれないこと。その中で、その人の感性を動かしたものを、でき得る限り知りたいと思うのだ。

 

 自分が最高だと感じた作品を親しい人に勧めることもあり、後日「見たよ」と言ってもらえた時にはテンションが跳ね上がる。作品について語り合う、あの瞬間は、なんとなく人生を共有できているような、それでいて新たな発見、自分とは異なる意見によって相手のことをより深く理解できるような、そんな温もりがあるんですよね。なんだろうか、こういうのって、とても「好い」と感じています。こういったささやかな感動を繰り返していくことで、相手のことはもちろん、自分のことも、少しずつ好きになっていければいいのにな。そんな願望と共に、今日もわたしは旅に出る。

 

 

「オススメのものがあれば、教えてください」