「ちょっと、あれどこいったか知らん?」
「なぁなぁ、この後あれ見に行かへん?」
「あれほんま美味いよなぁ、名前思い出されへんけど」
これは関西人特有のものなのかもしれないけれど、固有名詞が存在しなくても、何となく会話として成立することがある。そこに必要なのは相手との親密度だけ。ある程度お互いのことを知り合っている関係性なら、「あれ」とか「それ」だけで会話はスムーズに流れていく。
なんか、こういう関係性っていいよなぁって思うのです。会話の中に世界があって、二人だけの共通認識でその世界が成り立っている。第三者からすれば「?」が浮かぶばかりの会話内容は、何だか秘密の会話をしているみたいでちょっぴりこそばゆい。
長年連れ添った熟年夫婦とか、仲睦まじい親子とか、そういった間柄では頻繁にあれそれ会話が見受けられる。「何言ってんのやろこの人たち、面白いなぁ」なんてこと思いながら傍観していて、なんだかんだ羨ましくもある。家族でなくても、気の知れた友人との会話で自然発生することもある。「昨日のあれ、見た?」と発すれば「まだ見てないねん」と返事が届く。その光景は小規模の宇宙を眺めているようで、会話の次元が違いすぎる。マジでどうなってんだよ。最早わたしは感嘆することしか出来なかった。もちろんそれは、とてもいい意味合いで。
かく言うわたしも、会話の流れで自然にあれそれを用いている時があって、仕事中に先輩や同僚との会話で発生することが多い。「今日あれあります?」「あるある、任せるわ」「なぁ、結局あれどうなったん?」「あぁ、大丈夫、何とか収まった」「あれ、どこにあるか知らん?」「奥から二番目の棚の引き出しにあるよ」相手の仕草や表情で、何となく言いたいことが理解できてしまうから恐ろしい。察せられるし、察してもらえる。特にこれといって意識しているわけではないけれど、互いの気付きが上手い具合に絡み合って、一つの連帯感みたいなものを生み出している。これってもはや共同作業なのではないか? 結婚式ではケーキ入刀よりも、互いの「あれ」をどれだけ汲み取れるかゲームみたいなのをした方がいいんじゃないの? なんて馬鹿げた空想ばかりが広がっていく。
以心伝心、とまではいかないけれど、その感覚に近いものがある。言葉を介さなくても伝わるのが以心伝心、「あれ」を媒介として意図が伝わるのが連帯感であり共同作業。「本当のことは言葉にしないとなにも伝わらない」という信念を抱いているわたしは、「あれ」と言うだけで伝わるこの感覚を、関係性を、とても好ましく思っています。
以心伝心はあまりにも脆すぎる。少し思い違えば、関係性に亀裂が入ったりする。大切なことは、その都度言葉にして伝えることが大切。「わたしはこのように思っています」「あなたはどのように感じていますか?」語彙が少なくてもいい、表現が拙くてもいい。自分自身の感性をフル稼働させて、抱えている想いを相手に手渡せばいいのだ。受け取るか受け取らないかは相手の自由。そこに自分の意思は存在しないのだから、あとは相手に委ねればいい。
そして、そこまで重要ではないこと、まぁ伝わらなくても仕方がないかと思えることを「あれ」と表現して手渡してみる。すると、思い浮かべていたものが見事返ってくる。これは築きあげられた関係性が成せることで、本当に素晴らしくて、言葉の可能性を思い知らされるのであった。
以心伝心ではなにも伝わらない
最初にひとこと「あれ」と発することによって
今日も世界に宇宙が生まれる
了