[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0278 交わされる言葉たち

 

 わたしは、好きな人と会って話すことが大好きです。テキストメッセージを往復させるぐらいなら、直接会いに行って顔を見ながら話したいと思ってしまう。だから、メッセージでのやり取りは必要最小限に抑えて、LINEなどは”人と会うためのツール”として認識していた。

 

 それでも、お互いの住んでいる場所に物理的距離があったり、相手方の体調がよろしくなかったり、何らかの理由で会えない場合がある。そういう時、わたしの中でLINEは”人と会うためのツール”の殻を破り、”人と交流を深めるツール”へと認識を再構築する。会いたいのに会えない、という状況は中々に辛いものだ。それは当たり前のことだと思うかもしれないけれど、この当たり前が当たり前にならないように、辛さや淋しさと向き合わねばならない現状がある。少しでも相手を感じたくて、メッセージを送る。「こんな映画を見た」「読んでいた本の中にこんな一節があって」「そういえば以前言っていたあのことだけど」どれも内容としてはささやかなものである。時には、人との関わり方について、各々の人生観について、テキスト=言葉が左右交互に並ぶ時もある。こういう時、言葉とは本当に便利な発明だよなと感じる。実際に誰かを目の前にして言葉を発している時よりも、文字として言葉を認識する時の方が、より多くの可能性を感じられる。現在に至るまでに発明された如何なる文明の利器も、言葉に勝るものはないのだろう。印字もPCもスマホも、あくまで言葉の拡張ツールな訳であって、そもそも原点となる言葉が存在しなければ、文明はここまで発達しなかったのではないでしょうか。

 

 先日、韓国の方と食事を共にしていた時の話し。その方はトリリンガルの為、母国語の韓国語はもちろんのこと、それに合わせて英語と日本語も堪能である。その為、こちらが一方的に日本語で話していても、相手もそれに合わせて日本語で返してくれる。伝わらない部分は英語に変換する。わたしにとってその所業は異次元過ぎて、頭の細胞を少し分けてもらいたい気持ちになる。そんな彼がこんなことを言っていた。

 

「日本語は本当に難しい。平仮名の他に片仮名があるし、漢字もたくさん種類があって、同じ読み方や発音でも使うタイミングによって違う意味になる場合がある。それを駆使している日本人はすごい」

 

 何だか少しだけ誇らしい気持ちになった。現在でも問題視されている様々な事象があるとは思うけれど、日本に産まれて良かったと思った。わたしは、どうしても日本語が好きだ。言葉そのものから色気を感じる、その人の体温を感じることが出来る。もちろん他国語でも様々な表現ができるのは百も承知である。その上で、日本語にはやはり日本人特有の張り巡らされた繊細さ、そして鮮やかな情緒が散りばめられている気がするのだ。

 

 現代では、そんな美しい日本語が失われつつあるように思う。インターネットの普及により暴力的な造語の生産が加速している。それ故の読書離れ、語彙の喪失、取り残されたままの美しい表現たち。年齢問わず色々な人たちと会話する中で、言葉に意味合いが伴っていないと感じる瞬間が多々ある。平仮名を一音ずつ発声しているだけのような、フリック入力で置き去りにされた体温のような、そんな空虚さを視覚や聴覚が捉えている。だからといって、それが悪いとか、このままではいけないとか言いたいわけではないけれど、それでもどこか寂しい気持ちになっている自分がいます。

 

 空しい言葉の羅列に辟易する中で、時折輝いて見える人がいる。身は体を表す、よりも文体こそがその人のすべてを表しているようで眩しい。いくら外面ばかりを着飾ったところで、内側を磨き上げることは難しい。これは経験則なのだけれど、言葉遣いや文体が洗練されている方というのは、外側も美しく仕上げられていることが多い。言葉に個性が注がれているから、会話していてとても楽しい。相手に対して、というより、言葉と言葉が交わされることそのものに対する敬意を感じるのです。わたしは、そんな輝かしい存在と関わっていたい。その為に言葉を紡ぎたい、伝えたい、送りたい、生きていたい。だからこそ今日も書きます。明日も、これからも、ずっと書き続けます。輝きに触れる為に、光を分け与えてもらう為に。