[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0274 薬指の契り方

 

「振られました」

 

 今月の月初め、一人の友人からLINEが届いた。バーカウンターでメッセージを読んでいた私、スコッチやカクテルで頭中が揺れる。意図を上手く理解することができなくて、なんとなく『仕事やめた?』と打ち込んだ。『ちがう』『彼に振られた』と友人からの返信。ここで初めて、友人が悲しんでいることを把握した。言葉だけのやり取りでも感情が伝播することがある。わたしには何一つ関係がないことなのに、なんだか少し遣る瀬無くなって、もっとお酒が飲みたくなった。『部屋何号室やった?』と送信した後、BARの閉店時間まで一人酒を呷り続けた。

 

 結局、その日わたし達は合流しなかった。案の定ぶっ潰れたからだ、わたしが。目を覚ますと圧し掛かる強烈な二日酔いに耐えながら、思考の隙間から友人の失恋は漏れ出ていった。

 

 

 それから早数週間が経ったある日、ジムでダンベルに殺意をぶつけている中、ふと友人の姿が頭に浮かんだ。「そういえば、失恋したんだった」あたかも思い出したように振る舞っているが、実のところはずっと覚えていた。自分の心が追い付かなかったこともあって、話しを聞く体勢が整わなかったのだ。その日は調子が良かった、ものすごく良かった。今しかないと思い立ったわたしは、セット間のインターバル中に友人に電話連絡を突き付け、「話しを聞かせてもらいたいので、鳥貴族でメガハイボールを三杯だけ飲ませて下さい」と耳元に願望をぶちまけた。すると、「失恋女に驕らせるつもり?」と呆れながらも友人は柔らかに了承してくれた。

 

「久し振りに来たわトリキ」「やっぱ美味しいなぁ」「メガサイズのビールとか不可能やろ」純粋に二人で鳥貴族を満喫しながら、友人が過去を振り返り理路整然と言葉を並べる。こういう時、聞き手はただ相槌を打つことしか出来ないのだけれど、その事実がわたしを安心させている部分もある。人は、自分の話しをすることで心の重力が軽減される。その役割の一員として、歯車として自分が機能していることに対して、少しの喜びと安心を得る。酒が潤滑油として身体中を覆い、鼓膜へと言葉が吸い込まれてゆく。

 

 気づけば、友人は涙を浮かべていた。それは過去にあった恋人の残影に対してなのか、それとも現在の自分に対してなのか、当人以外誰も知り得ることは出来ないけれど、言葉足らずの一部分を埋めるかのように、涙は頬の上を伝っていった。彼女の中で、感情の整理が行われている。その為に眼前では喜怒哀楽が吐き出されている。涙に意味を見出すことも、理由を紐付けることもしなかった。目の前で友人が泣いている、ただそれだけでよかった。吐き出せて、吐き出してくれて、本当によかった。

 

 一通り話しを聞き終えた後、家族のことや最近の投資事情などに会話の路線が変更され、果てには"結婚の必要性"にたどり着いたのだった。「男は40過ぎても精子が生きてれば妊娠の可能性があるけれど、女はそういう訳にはいかなくて、今この瞬間も刻一刻と期限は迫っているんだよ」とのことだった。生物に組み込まれた理論としては把握しているつもりではいるけれど、それはあくまで"つもり"なのであって、わたしが男性として生を成す限りは、彼女が語る苦悩を本当の意味で理解することは出来ないのだろう。こういう時、わたしは発せられた言葉をありのままに受け止めることしか出来ない。その事実が何となく虚しく思えた。どうしても超えられない壁のような、どこかで人間としての限界を感じる。歯車は音を立て軋み始め、頭の中で『私』が少しだけ失われた気がした。

 

 そもそも我々は子を授かりたいのか、結婚願望はあるのか、人を愛することができるのか。そういったことを一通り話し終えたあと、一年前に会った時には皆無だった(らしい)わたしに、ほんの僅かな結婚願望が芽生えていることに気が付いた。友人に指摘されるまで気付かなかった微かな種子は、これから花を咲かせるかもしれないし、また生きていることが嫌になって種ごと燃えてしまうかもしれない。どう頑張っても、人は人を通してしか自分を知ることが出来ない。わたしは、愛する者を通して自分を知ろうとしているのかもしれない。子を通して新たな自分を発見したいだけなのかもしれない。自分が知らない自分自身を探す為に、誰かを愛そうとしているだけなのかもしれない。そう考えると、どこか部分的に冷たくて、そこには心地良いエゴが垣間見える。

 

 友人知人の子育て事情を聞かせてもらって、金銭的にも人間的にも、いまの自分には子を育てることは不可能に思える。願望が芽生えたといっても、結婚を必ず叶えたいとは思っていなくて、「タイミングが合えば結婚するのも楽しそうだ」と可能性に一つの分岐点を見出した程度である。結局のところ、一人で在ってもそれはそれなりに楽しくて平気で、そのまま地に足も付けずふわふわと浮きながら、一人のまま死んでいくのかもしれない。つい先日、「あなたは年々結婚が難しくなっているような気がする」「自分に対するルールが多すぎる」というような言葉を頂戴した。正直、自分でも生きれば生きるほどにそう感じる度合いが強くなっていて、数年後には寸分の可能性すら消滅するのではないかと危惧している。それでも、そうなった時は仕方が無いし、葬式費用だけはキッチリ残して、文章と抱き合いながら死んでいくのも悪くないかなと思っています。