[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0273 ヒトノナ

 

 人間は自分の名前をとても大事にする生き物だと聞いたことがある。名前を丁寧に扱われると嬉しくなるしその相手に好意を抱く。反対に、ぞんざいに扱われれば嫌な気持ちになって心の中で悪態をついたりする。いつでもどこでも私たちは自分自身に与えられた名前を愛している。その愛はほとんど無意識的に行われることが多い。例えば、大勢の人がごった返す繫華街。あらゆる音、言語が入り混じった中でふいに自分の名前が耳に入ってくる時がある。友人知人が私を見つけて呼んでいるのではなく、他人が他人のことを呼んでいる。偶然の同名、日本中に散らばったありふれた名前。雑多な中でも自動的に耳に吸い込まれる程度には、人は自分の名前に敏感なのだと思う。

 

 最近見聞きした中では、「名付けとは、産まれて初めて受ける他者からの権利行使」というのを面白いと感じた。確かに、どう頑張っても自分の名前を産まれたての『私』が決めることは出来ないし、「こういう感じがいいのだけれど」という願望を捻出すること自体が赤子には不可能だ。言語を含むあらゆる概念を持ち合わせていない、世界の明るさに適応出来ずまだ満足に瞼も開けられない、そんな何もかもが不完全な中で真っ先に名前だけが与えられる。”ヒトA”だった生き物が、タイキだったりカオリだったりレンだったりアオイだったりになる。不思議なもので、人間でも愛玩動物でも昆虫でも、名前があるだけで一個体として脳が認識する。名は体を表すとはよく言ったものだけれど、実のところは個人を確立する為に名前が必要なのではないだろうか。だから、私たちは『私』を形作っていくことが出来ると同時に、産まれて間もなく与えられたこの名前に死ぬまで縛られながら生きていく。

 

 インターネット上で、ニックネーム(愛称)を使用して活動されている方も多い。知名度が上がれば上がるほど、愛称で呼ばれたり親しまれたりする度合いが強くなる。いつの間にか愛称こそが個人の主体として置き換わっていて、本名がサブ扱いみたいな人もいるかもしれない。それでも、最初に与えられた名を捨てることはとても難しくて、生涯を通して寄り添ったり付きまとったりしてくるものだ。

 わたしが勤めている会社では、数年前まで本名ではなくニックネームで呼び合うという謎の縛りがあった。現在では自然と解放された縛りの名残りで、今でもわたしは入社当初に定められた愛称で呼ばれている。正直、経過年数に関係なく、違和感は変わらずに拭えないままでいる。出社する度に、呼ばれる度に、違和感に包まれるのだけれど、最早その違和感にも慣れてしまって、それは極めてライトな違和感なのである。

 そんな訳で、日常生活においては本名よりも愛称で呼ばれることが多く、病院などでは本名の使用漢字が当て字の為ほとんどの確立で間違われ、一体わたしは誰なんだろうと思う瞬間がある。わたしは誰の名を生きているのか、果たしてわたしの本当の名前は、与えられた名は、わたしという個人を象徴するものになっているのだろうか。別に、今この瞬間名前が消失してしまったとしても、戸籍上の問題を除けば難なく生きていける気がする。わたしが『私』として在る為にこの名前で在る必要はなくて、誰かに呼んでほしいとも思わなくて、産まれた時に与えられたものを便利だからという理由で自分の一部分として扱ってきた。きっと、名付けにはある程度の時間がかかっているだろうし、その瞬間には大きな愛情が注がれていたのだと思う。名前なんてなんだっていいから、その大きな愛情を未来に向けて分散してもらえれば良かったのだけれど、そんなことは不可能で、夢物語で、ただ『私』の名前だけが、いまの中で空しくポツリと鳴いている。

 

 生まれ落ちてから死ぬその時まで、一体あと何度自分の名前を呼ばれるのだろう。あと何度、あなたの名前を呼ぶことができるのだろう。名前はとても大切なもの。でも、それ以上に大切な温かいものが、人間の内側にはあると思うのです。少なくともわたしは、そう信じていたいのです。