[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0272 可能性としての完璧

 

 通勤で日に二度利用している地下鉄、電車の中でやることが見つからなくて、ふと周囲を見渡してみる。スマホに釘付けの男性、指の腹を使いスマホをスワイプする女性、映像コンテンツをスマホで鑑賞するくたびれたスーツ、コツコツと音を立てながらスクリーンを連打する老人。どこを見てもスマホ、スマホ、スマホ、嗚呼ごめんなさい、いつまで経ってもわたしはこの光景が苦手なのだった。繊細な薄い板に魅了されるわたし達人間を運ぶ暗い列車は、まるで快適な牢獄の様で少しだけ息苦しい。

 

 そんな中、空間の中でふわり浮いているように目に留まった一人の男性がいた。おおよそ身長は180センチ、パリッとしたスーツに身を包み、真ん中でエアリーに分けられた黒髪ショート、推察するに年齢は25歳ぐらいだろうか。そして、右手には文庫本が携えられている。うーん、見るからに世の中から好まれそうである。顔良し、姿勢良し、本に注がれる眼差し良し。ここまで完璧でいられては、何を読まれているのかが気になってくる。そう思った次の瞬間、頁をめくる際に表紙が見えた。それは太宰治の著書「斜陽」なのであった。

 

 おいおいやめてくれ、それはさすがにキザが過ぎるだろう。彼はすべてを持っているような気がした。無言で静かに殴られているような気がした。「人間観察が趣味です」という人間のことはどこかいけ好かないけれど、今回に限って私はどうしてもこの男性から目が離せなかった。彼がキザなのではなく、わたしの中にある完璧像がキザなのだ。そして、目の前にいる彼は完璧だった。いくらかの欠点を持ち合わせていたとしても、その欠点は完璧を助長する為の小道具のように思われた。

 

 斜陽を読む彼は、空間の中で異質な存在だった。久々に電車内で本を読みたくなる。気が付いた時には電車で読書をすることが失われていて、時折電子書籍を読むこともあるのだけれど、そこに集中の糸が生まれることなく、降車駅に辿り着く。わたしは立ちながら文章を読むことが苦手なのだった。ゆっくりと腰を据えて紡がれた言葉と向き合いたい。しかし、そんな私でも電車で文章を書くことは好きだ。なぜか書く方では頑強な集中力が発生する。目的地さえ通り過ぎて、このままどこまでも運ばれていたいような気持ちになる。

 

 

 電子書籍を読むのもスマホ、文章を書くのもスマホ、やっぱり私も現代人の一人であって、何だかんだとスマホを頼りにしている。傍から見れば電車でスクリーンに釘付けの、集合体の一部分に過ぎないのだろう。身体を微振動で揺らす電車、その中で本を読む人に憧れる。かつては自分もそうだったはずなのに、今では読むことが難しくなって、その事実が悲しくなる。音楽を聴いていても虚しい、インターネットを眺めるともっと虚しい。そんな時、わたしは周囲を見渡すことにしている。本を読んでいる人の佇まいが好きだ。斜陽を読む彼のような人間を、きっとこれからも探し続けるのだろう。