[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0151 癒着

 

 傷口の向こう側から私を見つめる一つの眼球。気づかないフリをして生きているけれど、どうしても気になって見てしまう時がある。そういう時は、ずっと互いの視線が合わさっていて、両想いなのかと勘ぐってしまう。この傷口が塞がると、この視線からは解放される。果たして、それは本当に”解放”と呼べるのだろうか。向こう側に眼球があるおかげで、私は何とか生活を送れている気がする。それは誰かが見てくれているという安心感、もしくは見られているという緊張感のどちらかだろう。視線が私を生かしていて、その架け橋となる傷口が閉じてしまえば、眼球は見えなくなる。そのまま時が経てば存在すら忘れてしまう。それ故に、わたしは傷口を塞げずにいる。

 

 癒着した部分をフルーツナイフで切りつける。優しく、慎重に、なるべく時間を費やして。あぁ、すごく痛いな。いつまで続くかもわからない鈍痛の中をただひたすらに突き進む。その先に”眼球”があることがわかっているから、痛っ、また互いに見つめ合う未来に希望を抱いて、現在の苦しみをこの身で受け容れる。痛っ。そしてまた会えた、思わず彼にキスをした。ファーストキスは粘膜の味がした。

 

 ”目で物を言う”、言葉通りに彼はわたしに何かを伝えようとしている。いつまで経っても心の動きは読み取れない。その視線に意味はあるのか?そんなことは私にだってわからない。物事の意味付けなんてものは、当人の主観を通した上での一解釈に過ぎないのだから。わたしが意味付けをすれば、それっぽい真理が生まれるだろうし、無意味だと放り投げればそこで終了、ただそれだけの話し。だからなんとなく、わたしはそこにある一縷の視線に真理を見出している。彼が無駄にならないように、わたしが少しでも生きやすいように、他の誰からも邪魔されないママゴトに没頭している。

 

 雨の中を歩いていると、涙が流れる時がある。傷口の眼球が泣いている。一体どうしてしまったの?問いかけても何一つ答えない。雨が降れば傘を差せばいい。物理的には濡れていないはずなのに、心の内側には幾粒もの水滴が張り付いている。それは全て雨なのかもしれないし、全て涙なのかもしれない。いずれにせよ、わたしには眼球が泣いているようにしか感じられない。悲しいのか、彼は一体何を思っているのだろうか。いっそのこと鳴いてしまえばいいのに、わたしの中を不協和音で埋め尽くせばいいのに。

 

 傷口は出来る限り早く閉じてしまった方がいい、なんてことは理解してる。それでも感情が追い付かなくて、私は閉じかけた傷口を元の大きさまで広げてしまう。これはピアスホールと似ているかもしれない。傷口=穴を開通させて、塞がることがないように異物をぶっ刺してピアスホールを完成させる。穴が空いていることも、ピアスが刺さっていることも、生きていく上で何の役にも立たない。他人から見れば、何のためにやっているのか理解出来ないかもしれない。それでも、ピアスが好きな人は望んで身体に異物を施している。これも「物事の意味付け=当人の主観を通した上での一解釈」が適用される。本人にとっては、大きく意味がある。そこにピアスがあるだけで安心したり、気分が上がる。ただそれだけのことで、生きることに対する難しさが軽減される。

 

 だからわたしは、いつまでも傷口を塞ぐことを躊躇ってしまう。わたし自信に問う、「彼を見捨てることが出来るのだろうか?」。そんなことはわからないけど、しばらくの間は互いに視線を送り合う関係性を続けていくつもりだ。傷口があると、痛みを感じる。その痛みに耐えられなくなった時に、塞ぐことを決意するのか。耐えられなくなるほどの痛みを待ち望んでいる自分もいて、何だか他人任せだなと思ってしまう。いつかは自分の意思で塞がなければならない、その時には既に手遅れかもしれない。未来ではどうなっているのか分からないけれど、少なくとも、今日は眼球が泣いている。