[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.098 沈黙の中、わたしの思い

 

  人と話すことが好きだ。

 

 それは共同作業、というよりも共犯関係のような、そんな会話が好きだ。相手が増えれば増えるほど、自分の集中力が分散されてしまうから、出来れば一人の方と深く話しを掘り進めたいと日々思っている。

 

 それでも、複数人での会話が楽に感じる時もある。今日はあんまり喋りたくないと思う時、開口する気力すら持ち合わせていない時。相手がたくさんいると、誰かの話しを聞いているだけでいいし、何なら聞いていなくても適当に相槌をいれておけばバレないだろうし、エッチなことを考えていても多分バレない。複数人は気楽な一面もある。

 

 独りぼっち同士が会話をする時には集中的に深く、複数人で会話をする時は肩の力を抜いて浅く、そんな感じで会話をすることが多い。皆さんは会話に対してどのような心持ちで向き合っているのかな?

 

 

 「もう嫌だ、誰も話しかけてくれるな、世界が憎らしくてたまらない。」と退廃的でベイビーな気分に陥る時がある。勿論のこと、そういう状態の時は出来る限り人間と関わりたくない、という心情が鮮明に浮かび上がる。口を閉ざし、ムスッとしている。お喋りな人間が全員爆ぜることを願っている。

 

 そうやって、誰とも会話をしないことも好きだ。しばらく心を閉ざしていると、不意に寂しくなる瞬間が訪れる。少し話しかけてみようかな、となる。そういう時は親しい友人に”会いたい”と愛の呪言を送り付ける。

 

 会って、話す。自分が、時には相手が、笑う。「会話ってなんかいいな」ということを再認識する。しばらくの間会話を手放したことで、その必要性が浮き彫りになる。

 

 

 会話をすることも、会話をしないことも、どちらも好ましい。その中間に存在しているのが「沈黙」だと思っていて。何よりも、わたしはこの無言の間を愛している。

 

 話しが一段落ついた時、話しに行き詰った時、そもそも緊張している時、様々な条件下で「沈黙」が展開される。しばらくの間、無言の時間が続く。会話はなされていないけれど、相手は目の前に存在していて、つまりのところ、対話は継続されている状態にある。

 

 わたしは、沈黙の空間が堪らなく好きだ。空間だけではなく、相手の反応も好きだ。どことなく気まずそうにしている表情、どこか遠くを眺めているかのような寂し気な視線、活発になる手指の動き、沈黙を突き破る為に振り絞った言葉、全てを書き記すことは難しいけれど、その何もかもが好きだ。

 

 意図的に沈黙を引き起こすこともある。それはただ喋り疲れただけかもしれない、単純に相手の可愛らしい一面を味わいたいだけなのかもしれない。そうして、私は無言の間に身を投じる。話しはしないけれど、時折相手の眼球をジッと見つめてみる、そして少しだけ微笑む。困惑する方もいれば、気味が悪そうにする方もいて、こんなことをしているから私は嫌われてしまうのだろうかと思う部分もあるけれど、まぁそれでもいいかと瞬時に自己解決をして、ただただその場を楽しんでいる。

 

 自分が全く予期しないタイミングで沈黙が訪れる時があって、そういう時には自分も動揺してしまう。挙句の果てに、癖付いた鼻歌を宙に響かせたりしてしまう。めちゃめちゃにダサい、ダサすぎて笑えてくる。

 

 沈黙を共有することで、相手方との相性がある程度明らかになる。慌てふためくことなく、無闇にスマホを触ることもせず、ゆっくりと落ち着いて空間を味わうことが出来る。そんな関係性が理想的だけれど、そんな理想と対峙した時には小っ恥ずかしくなってしまって、自ずから沈黙を破壊してしまったりする。わたしもまだまだ、沈黙の修行が足りないようです。

 

 

 これまで、会話についての文章をいくつか認めてきた。きっと、これからも新たに書き記していくのだろうと思う。何故ならば私は会話が好きだから、人と話すことが好きだから、そして、あなたと話したいと願うから。

 

 

「確かに世の中はクソだ、それでも僕たちはその惨状を笑い飛ばすことが出来る」

 

 それが会話の本質なのだと、私は思う。