[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.072 空を舞うペシミズム

 

「死は必ずしも解放とは感じられない。自殺はつねに開放であり、つまりは救済の極点、発作である。」

 

悪しき造物主 / シオラン

 

 先日、知り合いと酒を飲んでいた。数件ハシゴをした後にたどり着いたBARで、我々が話していると見ず知らずの他人=客がいつの間にか私たちの会話に加わっていた。特にこれといった魅力も感じなかったので、友人と見ず知らずの他人が話している姿を傍観しつつ、適当に相槌を打ちながら酒を味わっていた。

 

 私はかばんを持っておらず、本一冊だけを荷物としていた。気がつけば、友人が「こいつ、こんな本読んでるんですよ」と見ず知らずの他人に話しを投げかける。退屈そうにしていた私への気遣いだったのかもしれない。けれども、私はそれを快く思わなかった。

 

 私は、わたしの好きなものや大切にしていることを誰かと共有することが苦手だ。私の好きなものに対して好意を示されることも、否定されることも、理解を示す”フリ”をされることも、そういった何もかもが苦痛に感じる。本当に魅力的だと感じている相手になら、そういった話しをすることだってあるけれど、見ず知らずの他人にそんな情報を与えたくはない。そんなことで私の一部分を知った気になられたくない。

 

 既に話題に上がったので仕方がないと思い、渋々手に持っていた本を見ず知らずの他人に見せた。それは「生まれてきたことが苦しいあなたへ」という哲学者シオランの思想を解説した本なのだけど、これは最近読んだ本の中で一番のお気に入りであった。これまで培ってきた自分自身の考え方と酷似している部分があって、自分はシオランの生まれ変わりなんじゃないかしら?と浅い考えを想起させてしまうほどに、シオランの哲学は私の中へと何よりも自然に流れ込む。この本が自分の人生観を大きく変える一冊になることは、冒頭数行を読んだ時点で理解していた。だからこそ、時間をかけてゆっくり大切に読み進めていた。

 

 そんなかけがえのない本を、タイトルだけを一瞥した見ず知らずの他人は

「そういうのって、マジで読んでるんですか?」

「それとも演じているんですか?」

と言い放ったのであった。

 

 最近、絶望することは多くても、何かに対して苛立つことはほとんど無かった。何もかもに期待をしなければ、怒りの感情は湧いてこないことを学んだから。そんなわたしが、他人が言い放ったその一言で、久しぶりに理性を失いそうになった。アルコールが入っていた影響もあるのだろうか、否、寧ろアルコールが入っていてよかったとさえ思う。素面の状態だと、より鮮明に怒りの感情を露呈してしまえるから。

 

 相手の顔面に嘔吐して全身を僕の吐瀉物塗れにしてやろうかと思った。お前が吐き出した言葉に比べれば僕の吐瀉物の方が幾分清潔だろう。重めのお酒を飲んでいて、本当によかった。上手く頭が回らないおかげで、煮えたぎる憎悪の大半が自分の中で留まってくれた。その後、相手へどのような言葉を返したのかは全くもって覚えていないけれど、相手の戸惑いと不安が入り混じった表情だけは記憶に焼き付いている。もしかすると、重圧的な一言を発してしまったのかもしれない。その点は自分も大人気なかったと反省している。

 

 こうなってしまうから言いたくなかったんだ、だから教えたくなかった。私の好きなものは、わたしの世界の中だけで完結出来るのだから。そこに他者の意見や評価は介入させたくない。言葉とは、純粋な呪いである。他者が発した何気ない一言で、今後死ぬまで呪われ続けることだってあるんだ。自分が好いと思っている、ただそれだけが正しいことなのにも関わらず。

 

 [AM/2:00] わたしは店を後にした。もちろん終電などありはしない。それでも、タクシーに乗ることを私の中に在る憎悪が許さなかった。行き場を無くした憎悪が、佇むわたしに”本を開け”と命令する。おもむろにページを繰る私がたどり着いた「第二章 自殺」。気付いた時には冒頭一頁を破いていた。左手の指先で揺れる”自殺”の二文字。わたしは”其れ”を宙に舞わせたのであった。風に吹かれ不規則に踊るシオランの哲学、そんな光景に思わず笑みが零れる。わたしは間違いなく生きていて、そのことが何よりも悲しく感じられた。一頁、また一頁と希死念慮を宙に舞わせながら歩いた。そうやって、わたしは今日も真夜中を生きてしまった。

 

 

 「哲学と共に、わたしも早く散ってしまいたいものですね。」