[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0131 そこにポツリと佇む泣き顔

 

 最近はやっと生活サイクルが整ってきて、文章を書くことも、働くことも、本を読むことも、それなりに余裕を持って取り組むことが出来るようになった。

 

 人間ってそれなりに適応するものなんだな、と我ながら感心してしまう。あれだけ必死で藻掻いていた過去が、現在となっては口笛を吹きながらでもこなせる程度に、身に染みついている。

 

 ゆっくりと考えられる時間が増えると、「あれ、何で文章を書いてるんだっけ」という純粋な疑問が脳内に浮かび上がった。

 

 わたしは、自分が好きなことだから書いているし、自分自身の為に書いている、そう思っていた。誰に何を言われるでもなく、日々パソコンに向き合いキーボードを何百何千と連打している。

 

 「誰にも読まれない文章は、文章としての存在意義を果たしているのだろうか。」

 

 以前にも書き記したことがあるけれど、私は読んでくれる”誰か”がいるから書けている。その”誰か”がいなくなれば、この場所で書く事をやめてしまうだろう。100%自分の為に認める文章ならば、日記に殴り書きする程度で充分事足りる。

 

 読んでくれている方が何人いるのかはわからない。それでも、毎日”一人”以上には読まれていることをアクセス解析が示している。見ず知らずの方からすれば、「なんだこの長文」「文法ぐちゃぐちゃ」「おもんない」と思われる文章なのかもしれない。見るに堪えない言葉の集合体なのかもしれない。それでも、読んでくれている人がいる。読みました、とSNSで仰って下さる方もいる。ただの勢いで始めたこのブログを、未だ芽の出ないこの文章を、現代のニーズに合っていないこの長文を、読んで下さる方達がいる。

 

 

 「誰かの生活の一部になりたい」

 

 一人でゆっくり考えを深めていくと、このような結論に到達した。

 

 自分が書いた文章を読んでもらうということは、一時的に読者の生活の一部分になるということだ。これは文章に限らず、創作とはその作品を通じて相手の寿命に触れることでもある。文章、音楽、映画、絵画、料理、作品に触れている時間も刻一刻と相手の寿命が削られていく。限りある寿命の使い方を”生活”と呼ぶのであれば、その中の一部になりたいと思った。触れてほしいし、触れたいと思った。

 

 多分、わたしはこの先も誰かと一緒に暮らすことが出来ないだろう。何よりも向いていないし、”出来ない”と強く思い込んでいる部分もあって、それを理解した上で諦めている。

 

 他人に恋愛感情を抱くことがない、というよりも「あっ、今βエンドルフィンが活発になっているな」みたいな謎の俯瞰的観察をしてしまう癖があって、妙に冷静な部分があるから中々恋愛感情まで達しない。これも自分自身で決めつけているだけなのかもしれないけれど。

 

 このままずっと一人なんだなぁ、と思うと寂しい部分もある。けれど、それで心の平静が保たれているのだから、その寂しさを潔く歓迎する心持ちでいる。

 

 もう一人きりなのは仕方がない。誰かと一緒にいることが自分には合わなかった、ただそれだけのこと。それならばせめて、誰かに自分を知ってもらいたい。唯一自分が出来ること、文章を通じて誰かの生活の一部になりたい。死んだ後には自分の全てを忘れてほしいと思っているのに、生きている間は誰かの一部になりたい、なんてことを考えている。そんなわたしは、とっても我儘で、誰よりも人間らしいのかもしれない。

 

 暇だから読もうかな、ぐらいの感覚で読んでもらえれば嬉しい。「せっかく読もうと思ったのに更新されてないやん」という事態を避けるために、出来る限り毎日書いている。苦しくなった時に、身を寄せられる居場所を作りたい。こんな人間もいるんだ、と笑ってもらえれば幸いです。

 

 定期的に「書く事」について自分の想いを綴ってしまうのは、書く事で自分の人生が大きく変わったから。その素晴らしさが少しでも伝わっていれば嬉しく思う。他人から見ればマスターベーションにしか思われない文章だったとしても、それを読んでくれる人がいる。読んでくれる人の為に書いているし、それこそが自分の為となる。

 

 

 それだけで、物凄く救われる自分がいて。

 いつもありがとう、これからもよろしくね。