[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0132 華に憧れて

 

 駄目だ、今日は物凄く調子が悪い。

 

 最近一人で過ごす時間が少なかったからだろうか。生きていればこんな日もあるよ、なんて言葉で片付けられないぐらいに情緒が揺れる。情報が脳味噌を殴りつける、他人の意見がすべて正しいように感じる、自分の主張がすべて罪のように思える。情報を遮断しても頭の中で踊り狂う不安達が憎らしい。

 

 間違いなく、おかしくなってる。おかしくなってることを客観的に理解している時点でおかしくなってないんじゃないの?。そもそも正常ってなんだ?自分の正常はどこに在るんだ?。乱用される疑問符が申し訳なげに、私の心臓をフルーツナイフで何度も何度も刺している。痛みに痛みが上書きされ続けると、自分が過去現在未来どの場所に存在しているのかわからなくなる。そもそも私は、ちゃんと立つことが出来ていますか?。

 

 何もかもに対して敏感になっている。良く言えば五感が急的に研ぎ澄まされている、悪く言えば世界そのものに怯えている。やめてほしい、もう怒鳴り散らすことも、悪口を吹聴することも、愛を偽ることも、家族とかいう馬鹿みたいな枠組みで物事を考えることも。何もかもやめておくれ、このままではわたしの脳味噌が爆発してしまう。せめてもの思いで、お前たちに飛び散った肉片を浴びせたい。そこで初めて不快感を覚えればいい、また一つ賢くなったね。

 

 変わらなきゃいけない、このままではいけない、繰り返しの毎日ではいけないと思って試行錯誤をしていたけれど、変わることに焦点を当てすぎて、変えなくていい部分まで無理やり捻じ曲げようとするからしんどくなるのかな。自分には出来ないことがとても多くて、触れないものもたくさんあるし、臭気に敏感で近づけない場所もある。家族もいないし、たくさんお金を持っている訳でもない。そんな自分の一部分を「欠点」と判断しているのも自分自身で、他人から見ればそんなことどうでもいいのかもしれない。けれど、それでも欠点を卑下してしまう自分がいて、「そんなことないぜ充分お前は立派だよ」と言ってくれる自分もいる。一体何人の自分を作り出せば気が済むんだろう、一体どの自分が本当の自分なのだろう。それさえも他人の目には映らないことで、それが何よりも悔しい。結局、人は独りだということを実感する。

 

 でも、不思議と愛されたいとは思わなくて。独りを恐れて誰かを求めることはもう止めてしまった。現在は独りを受け入れる段階で、その過程に苦しめられているのかもしれない。苦しいことは良い事だ、おかしいことはとても良いことだ。傷だらけになってもいいから、どれだけ泣き叫んでもいいから、独りで立ち上がることを諦めないで。誰も助けてくれなどしない、手を差し伸べる人間は全員詐欺師だと思え。本当に理解ある人間は静かに見守ってくれるはずだから。わたしがわたしであることを、肯定してくれるはずだから。

 

 わたしが好きな小説の一つに、「落下する夕方」という江國香織さんが書き上げた作品があって、登場人物の一人に”華子”という自由奔放な女性がいる。最終的に、浴槽に浸かりながら両手首を切って自殺してしまうのだけれど、私はその美しさが欲しいと思った。それがきっかけで死生観を意識するようになった訳ではないけど、大きく影響を受けた作品ではある。何を考えているかよくわからない、全く掴みどころのない美しい女性が、ある日突然自死を選択する。わたしは心の底から綺麗だと思った、望んでいたものはこれだと感じた。だからこそ私は、いつか散るその日の為に、笑っている必要があって、ご機嫌である必要があるんだ。

 

 自分の良い部分に目を向けることも大切だけど、そういうことが出来ない時がある。心の調子が整わない瞬間が必ず訪れる。そういう時は、いっそのこと心の赴くままに自分の全てを徹底的に否定してやればいい。そこに慰めはいらない、自分の力で的確に己を切り付ければいい。そうしてある程度ボロボロになって心に疲労が溜まった時には、眠ってしまえ。眠れなければ、ハーゲンダッツとかウイスキーとか適当に流し込んで、夜を明かしてしまえ。翌日は会社を休んでしまって、休んだからには自分を甘やかしてしまえ。時間が経てば傷はカサブタに変わるから、その時に落ち着いて自分のことを考えて。自分のことだから、一切噓なんて吐かないで。せめて自分の中でだけは、最低の極悪人で在り続けて。

 

 

 八方美人より全方位ブス、そのぐらいが生きるには丁度良い。