[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0205 帰巣本能

 

 毎年、気が付けば足の指がしもやけになっている。元々寒さを感じにくい体質もあって、気持ち的には全く平気なつもりでいるのに、身体が気温に耐えきれずに異常をきたす。もう慣れたもので「あらら今年もやってきたな」程度にしか思わないけれど、少しばかりの痒みを伴うものだから、負けずと少しばかりの困ったフリをしてみる。

 

 思えば、心も同じなのかもしれない。こんなの全然平気大丈夫楽勝じゃんと余裕ぶって心の声を無視し続けた結果、気が付けばその悲鳴が鬱に変わっていた。中学生の頃まで”病む”という単語さえ知らなかった馬鹿者が、現在はしっかりと精神病を患っていて、体感を通しながらその病理に関しての知識を獲得している。人間、自分事になると脳味噌が著しく活発になるみたいだ。哀れで、滑稽だね。

 

 もう少しだけ、寛容に生きられればいいのだけれど。低気温に対する鈍感具合みたいに、もう少しだけ世界に対しての感受性を鈍く出来れば楽になれるんだけどな。それが出来ないから困っている訳で、バリバリと音をたてながら頭の中が混乱していく訳よ。それが自分の性格であったり感覚であったり世界そのものであったりするのだから、それってもう誰の手にも負えないことじゃない?。その手の中には自分自身も含まれていて、そのことで何よりも無力さを痛感するよ。突き刺さる様に痛い、わたしも含めて誰もいないことが虚しい。空っぽだ、何も入っていないかのように。いくら振っても音が聞こえないのは、わたしの耳がおかしいからなのかな。

 

 だからもう、全部諦めるしかなかった。誰も悪くない、わたしも他人も世界も。私はただ寛容で在りたいだけなんだ、わたしにも他人にもこの馬鹿みたいな世界にも。それだけを願うことしか出来なくて、それでも尚崩れ続けるわたし自身を俯瞰的に見守ることしか出来なかった。祈りは通じない、祈りは叶わない。いくら手を合わせ続けたとしても、手のひらが少し温かくなるだけ。その温もりを”加護”だと思い込みながら生きていくことが”救い”なのだとすれば、わたしはもう救済など必要としない。そんな虚構の中を生き抜くぐらいなら、笑顔を浮かべながら痛みを感じながら徐々に消滅していく方が幾らかマシだと思える。そして、その選択に対して人生を感じる。

 

 やがて足の指が壊死して腐り落ちてしまって、心が無くなって何も感じなくなって。そうなったとしても、地面を這いつくばりながらでも進むことが出来る。もう何もかもを投げ出してしまって、倒れ込んだその場で朽ちることだって出来る。いついかなる場合でも、自分次第で選択肢の開拓は可能だ。さて、この糞みたいな人生をどう広げていこうか。はたまたどのようにして終わらせようか。そんなことばかりを考えていると頭が疲れてきたから、いまはもう少しだけ眠ることにするよ。

 

 

「主観的な眠りの中で」