何も気にしなければ、人生はバラ色なのかな。
そんなことを時々考える。様々なことが気になり、精神力が削られる。気にしたくてしている訳じゃなくて、自分の中にある”無意識”が選択的に対象へと意識を向ける。少し気になると、他の部分にまで「気になる」が侵食していく。そうやって次々と精神力を削られた結果、最後には疲れ果てて動けなくなる。
そんなことを繰り返していると、本当にやりたいことに時間を費やせなくなってしまう。時間も、精神力も、わたし達の中では限りがある。それなのに多方面に気が散ることによって、それらはいとも簡単に消滅する。
ここ数年で不安障害の患者が急増しているらしい。私もその中の一人だ。意義あることに時間や体力を費やしたいと考えているのに、その充実した思考とは裏腹にわたし達はあらゆる”無意味”に気力を奪われている。そうやって空虚の中に自分を置き去りにしながら、今日の鼓動を消費している。
バラ色でなくても構わないから、せめて花を携えていたいとは思う。その程度に余裕を願うことこそが破滅の冒頭曲を奏でるのだろうか。心苦しさや気力の錯乱を可能な限り排除したい、正常に呼吸を行いたい。余裕や正常を追い求めた結果、その言葉が持つ本来の意味を見失い眼前が目まぐるしく回る。そして、世界そのものから失望される。
そもそも私は期待などされていなかった。誰からも思われてなどいなかった。馬鹿みたいな労働力のみを必要とされ、その対価として国に納める予定の金銭を得る。そんな擦り減った心で一体何を磨けるというのだろう。日々繰り返される自傷の中で、何を見つけて何を愛せるというのだろうか。わからないことが恐ろしくて、その不安が病理として私の頭を脅かす。
居ても居なくてもどちらでもいい。私には必ず代替が存在していて、それと同時に私は誰かの代替品でもある。虚しさが回り続ける、この大地だったり青空だったりに大きく舌を打ちつけながら、それでも脳を犯し続ける不安感情を疎ましく思う。
だからこそ、もう何もかもがどうだっていい。私がいても、私がいなくても、世界は回転を続けるだろう。その事実を認めて尚、何を気にしなければならないの?感情がボロボロになるまで突き立てた彫刻刀に意味などなかった。もう自由に羽ばたきたい、もっと馬鹿みたいな面を浮かべて生きていたいよ。
こういう事言ってるとメンヘラと揶揄されるのだろうか。何も言わなくても異常者と揶揄されてしまうのが世の常だから、こうして募る不安への対抗策を見失ってしまう。
了