[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.062 それでも俺たちは生きてかなきゃなんない

 

 このままではいつか壊れてしまうんだろうな、という予感がある。壊れてしまったらどうなってしまうんだろう、という漠然とした不安がある。予期不安に過ぎないのだろうが、だとしても不安なことに変わりはないし、その締め付ける手の力を弱めてくれる訳でもない。

 

 形あるものはいずれ壊れる。それは物も者も一緒なんだろう。壊れ方にも幾つか種類があって、経年劣化の寿命で壊れてしまう場合、外的要因から起きたダメージの蓄積によって壊れてしまう場合、自傷的に自身を破壊してしまう場合。それらをなんとなく予感出来ている時もあれば、ある日突然ショートしてしまう時もある。

 

 壊れてしまっても修復が可能な場合がある。途切れた回線や錆びれた部品を新たな物に交換してやると、入れ物(器)はそのままで再度動き出すことが出来るようになる。けれども、修理には専門的な知識が必要となる為、既に壊れている状態の当人が自身を施すことはとても難しい。その為、壊れた時には修理業者に委託することが望ましい。

 

 修復不可能な最悪の場合でも、物は代替が効く。これが人間の場合、「自分」という存在を"主観的"に視た時には代品が不在となる。自分から視た自分自身は唯一無二のオリジナルである。例えばこれが会社の場合、社員が不能になっても必ず代わりの人材は存在する。社会的に視るとあなたがあなたである必要性なんてない。だからこそ、どうしても仕事が苦しかったり辛かったりする時はスパッと辞めてしまうことが好ましい。求められるということは素晴らしいことだけど、必ずしもその期待や要望に応えなければならないということはないんですね。

 

 そもそも、"壊れてしまう"ことは悪いことなのでしょうか?。芸術家や文筆家は、世間一般で揶揄される"壊れた"一面を持っていることが多い。壊れているからこそ、常人では思いつくことが出来ないアイデアを常人では思いつくことのない方法で作品へと落とし込める。そもそもの視点が我々とは異なっている、視えている世界や景色が我々とは違うのだろう。

 そうやって一種の"狂気"みたいな物を昇華させることに成功している人はほんの一握りかもしれない。それでも、私はその世界を覗いてみたいと思ってしまう。

 

 それならば、壊れる予感がしているなら、いっそ壊れてしまえばいい。その先に広がる景色を身をもって体験すればいいのではないか。予感に怯え続けるのではなく、その予感さえも受け容れよう。自ら壊れるなんてことはしなくても、壊れていく現状に抗うことも止めてしまおう。川の流れには逆らわないこと、これが何よりの得策なんだと思いました。

 

 「壊れてしまうと、動けなくなる。動けなくなると、誰からも必要とされなくなる。必要とされなくなると、自分自身ですら必要性を見失う。そして、廃棄処分にする。」