[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.060 キェルケゴールの憂鬱

 

飾りつけないでこのままの私で生きていくため

何が必要

 

自分さえ信じれず 何を信じたらいいの

答えは近すぎて見えない

 

黒い涙 / ANNA TSUCHIYA inspi' NANA(BLACK STONES

 

 少しばかり調子が良くなったからといって色々と挑戦を詰め込んでしまって、結果的に疲れてしまった。ただ悲観的な訳ではなくて、心がやせ細っている感じ。特段気持ちが落ち込んでいる訳でもなく、放心状態でフワフワと身体が浮いている感じ、そんな感じ。

 

 

 マイペースに生きることが大事だと思っている。しかし、そのマイペースも度が過ぎれば周囲から人が離れてしまう。その塩梅がとても難しいからこそ、現代人は人間関係での悩みが尽きることはない。自由奔放で歩き続けたい、けれども人からも愛されたい。そんな二者択一の模範解答なんてぶっ壊して、人から愛されながらも大空を飛び回りたいなと考えてしまう今日この頃です。

 

 そんな欲張りなら、悪くないなと思う。

 

 僕は誰かに歩幅を合わせることがとても苦手だ。それと同じくらい、相手に合わせてもらうことも申し訳なく感じる。それならば、[自分: 50%/相手: 50%]の割合いで寄り添えれば理想的ではないかと考える。しかし、全くの均等なんてあり得ないことだし、必ずしもそれに心地良さを感じるとも限らない。[自分: 70%/相手: 30%]の関係性もあるだろうし、[自分: 20%/相手: 80%]の場合もある。どちらかの値が100%に達してしまうとその関係性は破綻してしまうだろうから、”それ以外”なら如何なるパーセンテージも一つの関係性として確立された形になるのではないか。なんてことを考えていた。

 

 ということは、自分自身も相手への最低限の譲歩は必要になってくる。これは人間関係を形成する上での絶対条件だろう。[絶対に自分の速度を保たなければならない]という、凝り固まった強迫観念や認知では本当に周りから人がいなくなってしまう。僕はよく周囲の人から「マイペース」と揶揄されることが多いので、もう少し相手の速度に合わせるということを学習した方がいいのかもしれない。

 とは思うのだけれど、これまで割と直感で他者とコミュニケーションを築いてきた為に、論理的に考えれば考えるほど頭中に渦が巻いて何が何だかわからなくなっていく現状です。

 

 そんな現在とは対照的に、10代の頃は[自分: 10%/相手: 90%]ぐらいの割合いで他人に合わせて生きていた。そんな中である日精神がぶっ壊れてしまい、その状態で他者から言われた「お前は八方美人過ぎる」の一言で自分がこれまで築き上げてきた価値観が見事なまでに崩壊してしまった。その方は、「全ての人から好かれることなんて不可能だ。」ということを伝えたかったんだと思うけど、当時の僕はその言葉の重圧に耐えることが出来なかった。

 それからは八方美人は”いけないこと”だという認識を持つようになった。今思い返すと、確かに当時は人から嫌われることを極端に恐れていた部分があった。だからこそ、自分自身を知る為に、その頃から様々な本を読むようになっていった。そうして自分自身の思考の癖を変えていった。他人から嫌われることが怖くなくなった、自分らしく振る舞えるようになった。そして、これまで無意識的に行っていた「相手を褒める」だったり「些細な気遣い」みたいなことは止めてしまった。多分、当時の自分は相手を調子付かせたくなかったんだと思う。偽りの自分を捨てることに成功すると同時に、自分の良い部分も廃棄処分してしまった。

 

 最近になってやっと、昔のように”相手を褒めること”を自然と出来るようになってきた。ただし、自分の心が削れてしまうからお世辞は言わないことにしている。相手の”良い”と思った部分は言葉にして伝えるべきだ。ただそれだけでいい。そう心掛けていると、相手の良い部分が眼前に浮かび上がってきたりする。「自分の心持ち次第で、これほどまでに世界の映り方が変わるのか」と自分自信で感嘆してしまうほどに。

 

 現在となっては、八方美人が悪いことだとは思わない。そもそも”美人”であるのだから、”ブス”でないだけ幾分マシだろうと思いませんか?。元々八方美人とは「欠点のない美人」という意味合いで使われていたそうです。自分自身の理想像としては、「八方美人なエゴイスト」が素敵だと思っています。本来の「八方美人」としての意味合いでは”エゴイスト”が欠点に当てはまります。言葉として成立していないけれど、その矛盾が好ましく思うし、現実に落とし込むことは充分可能だと思っている。どちらか一方ではなく、どちら共の良い箇所を掬い取ればいいんです。

 

 

 美しさに引き寄せられる、それが我々人間なのです。