[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.061 その大鋸屑でさえ愛おしく思う

 

 心が体育座りをしていたり、とても気持ちが落ち込んでいる時、何かをするのも億劫で、だからといって何もしないことも同じぐらい苦しくて。そんな自分自身が割と高頻度で来訪するのは、自分の心の弱さが原因でしょうか?。それともこれこそが現代社会の闇なのでしょうか。

 

 まぁ、そんなことはどうだっていいんだけど。

 

 今回は、「精神が悲鳴を上げている時にやっていること」をリスト形式で書き記したいと思う。これだけ精神状態が乱高下する自分の応急処置なんてこれぽっちも役に立たないと思うけど、誰でもない自分の為に書きます。所全自己満足であり、ただの自慰行為であります。

 


 

  • 寝る、とにかく寝る

 人間が抱く三大欲求の内、最も大切なのは睡眠だと思う。現代人は忙しすぎる、眠りを妨げるコンテンツが多すぎる。睡眠量が不足すると、精神面に直接的な影響が発生する。思考能力が低下して、情緒が不安定になる。結果的に一日のパフォーマンスが著しく低下して更なる自己嫌悪に陥る。近年ではあらゆる学者や医者が睡眠の重要性を示唆していて、書店に足を運べばあらゆる著者の睡眠に関する書籍が顔を揃えている。

 

 過去の自分は睡眠を軽視していた。[早朝5時に起床→日中は目まぐるしく行動→0時頃就寝]みたいな生活サイクルを送っていたんだけど、その時はとにかく脳内が忙しなかった。出社前にジムへ行ったり、7時頃から出社時間までカフェで読書をしたりしていた。ジムへ行っても眠すぎて力が入らないし、本を読んでも眠すぎて内容が入ってこない。仕事が終わって帰宅すれば、すぐに夜ご飯を摂取してそのまま爆睡。みたいな生活を3年ほど続けていた。「朝を制する者は時間を制する」だったり、「圧倒的時間の余裕」を掲げていたにも関わらず、こうして思い返してみると何も成し遂げていない。勿論、こうやって文章を書く余裕もなかった。

 

 打って変わって、最近は生活に少しでも余裕を持たせるために、とりあえずたくさん眠ることにしている。これまでは”睡眠時間が勿体ない”と人生に焦りを感じていたけど、「そんなに焦ってもなんも意味ない、どうせその内死ぬわ、寝よ」といった具合に考え方が変わった。すると、気持ちに焦りが無くなったことによって、物事を楽観視することが出来るようになった。他人に対してネガティブな感情を抱くことが少なくなった。結果的に生活と心の余裕が増えた。たくさん眠ることによって、疲弊した脳内と精神が徐々に回復していったんだと思う。

 

 気持ちが落ち込んでいる時は、普段よりも更によく眠る。我に鬼気迫る鬱々とした感情達も眠っている間だけは思考を停止する。それが現実逃避でも構わない。辛い時には一時的にでも逃げてしまえばいい。目覚めた時には、少しスッキリしている場合もあって「冷静に考ればなんとかなるかもしれない」と思えることもある。勿論、そのまま不安感情や希死念慮が継続している場合もあるけれど、それはそれで良しとする。

 

 眠っている間は心地良い。死んだあとはずっと眠れると考えれば少しばかり楽しみでもある。死後の予行演習として、僕たちはたくさん眠りにつこう。おやすみなさい。

 

 

  • 好きなものだけを摂取する

 気持ちがしんどくなってる時は、心のバッテリーが枯渇している状態だ。現在世に出回っているバッテリー搭載型のあらゆる種類の端末は、バッテリー残量が一定数値を下回ると警告してくれる仕様になっている。その残量数値は製品によって異なるけれど、人が慢性的に苦しさを感じる時というのは、”バッテリー残量が僅かだよ”という心が発する警告メッセージなんだと思う。だからこそ、私たちは適度に心を充電する必要がある。

 

 心の充電とは何か、それは「”好き”に触れること」だと思っている。物でも、人でも、作品だったり、食べ物や飲み物でも、自分の”好き”ならばなんでもいい。”好き”に関して言えば、”質”を求めることは大前提として、その他に”量”があってもいいと考えている。充電スペースは多い方が心に優しいし、”好き”の相乗効果で倍速充電することも出来る。自分の場合は、「好きな香りを満たした部屋で、マクドナルドを食べながらお酒を飲み、食べ終えればお酒を飲みながら好きな本や映画を目から取り入れる」ということをよくやっている。この場合、[香り×マクドナルド×お酒×本×映画]の相乗効果となる。時には文章を書いたりすることもある。元気な時に書ける文章もあれば、絶望していなければ書けない文章もあって、私はバッテリー切れを逆に利用してやる。納得がいく文章が書けた時には少しだけ自分のことが好きになれるし、上手く書けなくてもそれはそれで仕方がない。書くだけで心が整理されて潤いが与えられる。それは自分にとって書く事が何よりも”好き”なことだからなんだろう。

 

 多分、臨床的視点から言及すれば、鬱々としている状態でのマクドナルドとかお酒はよろしくないんだろう。けれども、自分はそれらが好きだからこそ、何を言われようとも摂取を続けたい。

 とにかく気分が沈んでいる時には、積極的に心を充電していきたい。

 

 

  • 無感情でもいいから踊る

 人間が持つ”行動”と”感情”の二つは密接な関係にある。そして、”感情”をベースとして”行動”に移るのではなく、”行動”をベースとして”感情”が形作られるという通説がある。要するに [楽しい(感情)から笑う(行動)]ではなく、[笑う(行動)から楽しくなる(感情)] である。行動が先にあって、後付けするように感情が形成されるらしい。人間の脳は非常におバカちゃんな一面があり、どれだけ辛い状態だったとしても作り笑いを浮かべれば、脳はそれを笑顔だと勘違いして幸福ホルモンのセロトニンが脳内で分泌されるらしい。これらのことからも、行動次第で感情を幾らかコントロールすることは可能なんだろう。

 

 心が疲弊していたり、倦怠感があって何にもやる気が起きない時には、何をすることなくベッドでゴロゴロしたり蹲ったりする。それはそれで心の回復としてはいいんだけど、そうすることによって更なる疲労感や倦怠感に見舞われる時がある。そういう時には、部屋をダンスホールにしてみる。とりあえず身体を起こす、8ビート調の音源をスピーカーから垂れ流す、

 

そして踊る、

というよりも踊れ!

 

 ダンス経験のなさはもとより、運動神経のなさ極み乙女のわたしが繰り広げる拙いダンス。時として歌いながら踊る。時として目を瞑りながら踊る。可能な限り、馬鹿らしく踊る。そうしている内に、「何してんやろ、あほらし、死ね」といった具合に何もかも全てが馬鹿馬鹿しく思えてくる。そして眠りにつく。これが思っている以上に効く。難しく考えることに疲れてしまったら、馬鹿になろう。意味のわからない踊りをしながら、悲観的になることは難しい。

 

 

  • 何事も否定しない

  気持ちが落ち込んでいるときには、現在は勿論のこと、既に通りすぎた過去やまだ確定していないハズの未来、自分自身が含まれる何もかもを否定してしまいがちだ。自分は正しさを何一つ持ち合わせていないのではないかと、根拠のない錯覚を後ろ盾にして自分自身を否定の剣で斬りつけてしまう。一種の自罰傾向というか、そうすることで、自分は駄目だと思うことで、悲惨な現状を直視しないようにしている。現状から目を背ければ背けるほどに、悲劇は密度を増していく。

 

 どれだけ自分自身を制裁したところで、誰一人として救われないのに。何より自分自身が軋み、壊れてしまう。そんな惨劇を防ぐ唯一の方法が「絶対に自分を否定しない」ということ。未然に防ぐに越したことはないけれど、心の一部分が故障して機能しなくなっていたとしても、"否定しない"ということには今この瞬間から取り組むことができる。

 否定しないとはどういうことか、言い換えるとそれは"自分を受け容れる"ということだと思う。近年では自己肯定感というワードをよく見聞きするようになったけど、自己否定的な人がいきなり自分自身を肯定することはとても難しい。無理して肯定を意識すると、その反動でより否定的になってしまうかもしれない。だからこそ、否定もしなければ肯定もしないというスタンスが良いと思っている。肯定とか否定とか、あらゆる物事に対して優劣をつけているのは紛れもない自分自身であって、心が苦しい時にはどうしても判別が否定に寄り添いがちになってしまう。それならば現状を、自分自身を、ありのままに受け容れることが、長期的にみると心の回復や自己肯定へと繋がるのだと私は考えています。

 

 [落ち込んでいる自分、沈んでいる自分、死にたいと思っている自分、何もせずに一日が消えた自分、一人きりの自分、暴飲暴食をした自分、他人と比べてしまう自分、嘘を吐いた自分、人を信じられない自分、過去を払拭できない自分、未来を生きたくない自分、自分のことを好きになれない自分]

 

 一人ひとりの中には様々な色彩鮮やかな自分が存在していて、苦しい時には沢山の自分が顔を出す。そんな自分達から逃げるでもなく、向き合うでもなく、ただ其処に在るという事実だけを認めること。泣き喚いたり、罵倒したり、逆に慰めたりもしない。「いらっしゃい」ぐらいの心意気で、ただ側にいるたくさんの自分達を見守ってやればいい。彼らがいつまで居続けるのかわからないけど、ただひたすらに見守ってあげる。それは一種の"母性"みたいな、そういった類の思いやりを持って微笑を浮かべることが出来れば、なお良い。

 

 そうすると、気がついた時には居なくなっている。消えたのではなく、居なくなっただけだから、生きていればまた現れるかもしれない。その時も「久しぶりね」ぐらいの感じで接してあげればいい。あらゆる自分に対して優劣をつけないでおく。上手く出来た時にだけ褒められると、褒められなかった時には=上手く出来なかったと心が錯覚するんだ。上手く出来たかどうかは関係なく、行動できた自分を褒めてあげよう。行動出来なかったとしても、少しでも行動することを思考した自分を褒めてあげて。生きているだけで偉いんだから、私たちは呼吸をしているだけで褒められる存在なんだよ。

 

 先ずは、否定的な自分自身をありのまま受け容れる。そこから少しずつ肯定へと道が繋がっていくんだと思います。

 

 


 

 

 長くなりましたが、要約すると「現状をありのまま受け容れて、好きな事して、踊って、疲れたら眠る」ということ。落ち込んだ時の対応策を持っているだけで、回復や復帰が段違いに早くなる。苦しい時間はできる限り減らしたいし、もっと気楽に日々を過ごしたいよな。

 

 

とりあえず、今日を生きた自分自身に乾杯しよう。