[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.000 不得手の取扱説明書

各々がそれぞれの理由で苦手としていることがある。苦手なことは、苦手なままでいいんじゃないでしょうか。そのように考えるわたしは怠け者でしょうか?自分自身が有している得意なことだけを伸ばしていけばいい。その得意なことが世間に認められた時には、苦手なことさえも一個性として受け入れてもらえることでしょう。

 

N.021 夢見るペルソナ - [No.000] /  Nui.」

 

 

 私はカフェに行くときには必ず本を持参する。積読になって部屋に放置されていたその一冊を、なんとなく手に取りカフェへと出向いた。それはいわゆる自己啓発的な内容で、要約すると「人生を変える為には、未開拓地に自ずから飛び込んでいくしかない」といったものだった。日常に刺激を求めてしまう人間は、ぬるま湯に浸かっているということ。変化を嫌うことが人間の性質であって、しかしその変化を恐れるあまり行動を起こせないというのは愚の骨頂である。このように幾つもの辛辣なお言葉が整列している本でした(あくまで個人の解釈ですが)。

 なんだかとても偉い人に怒られているような気持ちになって、少しばかり萎縮してしまう。行動しなければそこで終了、慣れ親しんだ環境に身を置き続ければ成長は無い。動け動くんだとにかく動け、と言わんばかりに自分の心をガツガツ抉るその文字列たちを直視することが苦しくて、最後まで読み切ることが出来ないまま書を閉じて店を後にした。

 

 一歩また一歩と帰路を進む中、自分自身の中で徐々に違和感がこみ上げてくる。その感覚が何とも言えず気持ち悪い。「顔を見たこともない偉そうなおっさん(著者&失礼)に言われっぱなしでいいのか?」と耳元で囁くもう一人の自分がいる。これは完全に悪魔の声だと理解してはいるのだけれど、もう感情を止めることは出来なくなっていた。基本的に、嫌なこと、苦手なこと、やりたくないことを避けながら生きて来た。好きなこと、得意なこと、どうしてもやらなければならないことだけに体力を注ぎ込みたい。しかし、嫌なことから逃げてばかりいると、いつまで経っても嫌なことは嫌なことなままでその苦手意識を払拭することは出来ない。もしかすると、なんとか向き合うことが出来れば少しだけ好きになれるかもしれない、克服出来るかもしれないのに。いつまでも逃げ回っているから、私の世界は何も変わらないんだ。そうだ、きっとそうだ、これまで避け続けてきた未開拓地に身を投じる、その時が今だろう。そのように確信を得たわたしは、嬉々として絶望への第一歩を大きく踏み出した。

 

 わたしが苦手意識を抱いている物事はたくさんあって、その中でも象徴的なものが「料理」なのです。勿論、これは自分が取り組む場合の話しであって、料理をそつなくこなせる方のことを否定するつもりは寸分もございません。寧ろ、自分が壊滅的に不得意だからこそ料理スキルが高い方をとても尊敬している。先ず、料理をするには「何を作るか(目的)」を前提とした幾つかの工程があって、食料を調達するところから始まり、自分自身の匙加減で調理を行い、完成したら実食、そして最後に洗い物を片付けて完了となる。これらを一連の流れとして、”たった一食”の為に脳と身体のエネルギーを注ぎ込む(作り置きは例外とする)。苦手意識を持っているからか、自分にはこの一連の流れがまるで濁流の中で溺れているかのように感じる。脳の思考領域が大幅にそぎ落とされる感覚があって、それだけで他のことが何も出来なくなる。料理上手な方はあたかもそれが最初から自然の中に存在しているものと言わんばかりに、流麗な佇まいで調理から片付けまでを手際よく進行していく。この差は何なんだろうか、なんだか悔しくなる一方で、完全に諦めている自分もいて。そんな自分をぶっ壊す為、数年ぶりに食用油を使い猛威を奮うことにした。

 

 料理の中でも、食用油がとくに苦手だ。付着するとベタつくことが恐怖過ぎるし、油を火にかけた時に発生する煙と特有の匂いも苦手だ。その匂いには「はい、私が油ですよ」と大声で挙手しているかのような図々しさがある。10代の頃は食べられれば何でもよかったので適当に炒め物をしたりしていたのだが、知らぬ間に其れ等全てのことが出来なくなっていた。歳を重ねるということは、出来なかったことが出来るようになることであり、またその逆も然りなのだろう。それにしても出来なくなるのが早すぎはしないだろうか?これはきっと自身が罹患している病の影響なのだと思う。病から発生する恐怖や不安が起因となり対象物を避けて避けて避けるようになった結果、より膨大な恐怖心が新たに創出された。そんな負のループを駆け巡り現在がある訳で、今後もそのような輪廻を繰り返すのだろうか。いや違う、このネガティブ素材のフラフープをこの先も回し続ける訳にはいかない。当然のことながら腰を振り続ければフラフープは周り続ける、全てを終わりにする為にはこの腰を止めるしかないんだ。そして、今回の場合は苦手な油料理に取り組むことが、腰を止めることに該当する。負の連鎖を断ち切れ、なるようになるもんだから、思い切って飛び込むしかない!

 

 

 惨敗した。見事に惨敗してしまった。そもそもどの料理を作るか考えること自体が苦痛だった。私は、自分が納得して決めたものを毎日繰り返し食べたい。自分の中では一人でする食事は単なる栄養摂取だから、そこに思考力を使いたくないし、時間も使いたくない。「料理は手間暇」なんてこと、よく言えたものだと思う。料理が好きな人はその情熱を好きなだけ料理に注げばいい。しかし私は料理が好きではない、情熱の一欠片も持ち合わせてなどいない。炒め物をしても油跳ねがすごく気になるし、食材を切ったりする時間も必要だ。いざ完成して食べても、たいして美味しくも感じない。それら全てが完全なるストレスだった。これまでの自分から脱却するべく、苦手なことを克服しようとした。その結果、物凄くメンタルが落ち込んだ。「たかがそれだけで」と思われるかもしれないけれど、自分にとっては大きな問題だった。限りある自分自身のエネルギーを急速に食いつくされる感覚があり、心身ともに大きく疲弊してしまった。「これだけ苦しい思いしてんから絶対文章に起こしてやる」と半ば憎しみ交じりに意気込んでいたけれど、文字に起こせるようになるまでに一週間程が経過していた。

 

 結局、苦手なことはいつまで経っても苦手なままなのかもしれない。それを克服出来る人もいるだろうけど、苦手を克服する為には膨大なエネルギーが必要だ。そのエネルギー消費が惜しいと思ってしまう。私は物心ついた時から「他人よりずば抜けて優れている得意分野を一つだけ持ちなさい。それを育てることだけを考えなさい。それ以外のことは何も出来なくていいから。」ということを父親から口酸っぱく何度も言われてきた。彼との記憶はほとんどないけれど、その言葉だけは現在になっても頭の奥深くまで根付いている。そうやって言われ続けて育った結果、特にこれといった成果を上げることはなく、ただの何も出来ない人間になってしまった。多少得意なことはあるけれど、ずば抜けることは出来ていない。現在となっては、他人と比べなくていいと思えるようになったが、自分の代名詞的な”何か”が欲しいとは思う。人間が一日に使える総エネルギー量には限りがある。そんな貴重なエネルギーを、苦手でやりたくないことに分配するなんてあまりにも勿体無い。自分がやりたいこと、成果を上げたいことに時間とエネルギーを投資する。苦手なことは苦手なままでいい、これが今回の地獄料理で得た唯一の学びでございます。

 

自分が苦手に感じることは

それを得意とする誰かの力を借りればいい

 

そうやって、この世界は回っていく