[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0314 価値観の暴力

 

 いろんな人と話して、多彩な価値観に触れることが好きです。

 

 どんな人にもその人なりの価値観があって、その感覚に従って様々な感情が発生している。いかなる時も芯にあるものは変わらない、なんてことはなくて、日々少しずつわたし達は変わっていく。それは良い意味でも、悪い意味でも。自分や周囲が独自の判断を下しているだけに過ぎないけど、とにかくわたし達は、触れたものをある程度吸収できる素質を持っているようだ。

 

 アメリカの起業家であるジム・ローンは5人の法則というものを提唱している。「周囲にいる親しい5人の平均があなた」というやつ。これも価値観が影響していると自分は考えていて、価値観が互いに影響し合った結果、似た者同士が集まるのではないか。間違いなく価値観は伝播する。なんてここまで語ったものの、わたしはこの法則をあまり信用していない。なぜならば、自分の周囲にいる親しい5人、その平均が自分であるはずがないと思うから。みんな、何かしらで大成してる。こんなにも精神がブレブレな人間、誰ひとりとして存在していないのだ。平均値がわたしなのだとすれば、世界はこの5人を過小評価していることになる。そんなことはわたしが許せない。だから、この法則には疑問を呈する部分が大いにあるのだけれど、”価値観の伝播”という一側面においては、とても信憑性が高いものがある。

 

 多くの価値観と触れ合い、すてきだと思ったものを吸収すること。その日から見える景色が変わり、まるで人生がアップデートされたような、そんな感覚に浸ることもあって、とても嬉しい。合わない価値観も無下にするのではなく、なぜ合わないのか、自分はなにを受け入れがたく思っているのか、思考を深めれば深めるほど楽しくなってくる。こうすることで、嫌いな人や苦手な人と話す時に発生するあのチクチクとした苦痛が、割合軽減されている気がする。誰と話しても気付きがある、こうして人間は言葉を介して構成されていくんだろうな。

 

 ただ、価値観のドアが全開になっている時があって、スルスルと自分に入り込んでくる価値観が苦しくなることがある。要するに情報過多というか、たくさんの価値観に触れすぎて、脳の処理が追いつかない状態。こうなっては既に手遅れで、一体なにが正しくてなにが間違っているのか、これまでの自分はすべて間違っていたんじゃないか、といった具合に脳から不安の濁流が押し寄せる。間違った頭でなにを考えても正解にたどり着くことは出来ない。一旦、情報から離れる必要がある。価値観を遮断する必要がある。

 

 わたしはSNS全般が苦手です。一応やってはいるけど、見ているだけで苦しくなる瞬間が幾度となく訪れる。「なぜ自分はSNSが苦手なんだろう」と考えた時、「無数の価値観がスクリーン中に散らばっているから」との結論に至った。しかも、大抵の場合そこには良い側面しか掲載されていなくて、それは自分からすれば圧倒的な虚構でしかなかった。すこし閲覧しているだけであっという間に情報過多、価値観が流れ込んできて苦しくなる。ただの自己満足として投稿するぐらいが自分にはちょうど良くて、だからフォロワーとやらも永遠に増えないままだ。SNS運用が上手いひと、本当にすごいと思う。自分にはできないことだから、純粋な気持ちで尊敬しています。情報処理能力や、遮断力の、きらめく才能がただ眩しい。

 

 こうやってブログを書いているぐらいが自分の心には優しくて。様々な表現方法がある世界、関わり方の選択肢を与えてくれて、案外この世界にも素敵な側面があるものだ。誰が読んでいるかもわからない文章だけど、価値なんてどこにもないかもしれないけれど、書いている今この瞬間が、とても楽しい。それがわたしの価値観であり、世界との関わり方なのです。

 

 今後は小説とか、こっそり書いていきたい。