[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0315 それは小さな生命

 

 先日、友人と、友人のお子さん(一歳半)、自分の三人で散歩をしていた。隣では一歩、また一歩と小さな足を一生懸命に踏み出している。歩幅は小さいのだけれど、思っているよりも歩くスピードは速かった。自動販売機に夢中になったり、カフェが飼育している金魚の虜になったり、階段を昇り降りしたり、とにかく、同じことを何度も何度も繰り返して楽しそうにしていた。繰り返しは小さい子あるある。同じこと、ずっとずっと夢中でいられる幼子の集中力に、思わず関心してしまった。

 

 小さい子がいると目が離せない、とはよく言うけれど、言葉通り寸分たりとも目が離せないのだった。他人のわたしですらそうなのだから、親の立場であればなおのことだろうと思う。目を離した隙に、走り出して消えてしまう。その速度というのも中々のものなのだった(自分が遅すぎるだけかも)。常に反射神経をフル回転させているのが親で、そのおかげで子は危険を回避しながら、たくましく成長する。最近育児エッセイを読んだ影響もあり、世の中の母親父親には頭が上がらないのだった。本当に、本当に、毎日お疲れ様です。小さな生命は温かいですか? あなた達のおかげで、小さな身体に宿った大きな温もりが、笑顔として溢れています。

 

 小さな子と一緒に歩いていると、あることに気が付いた。それは、すれ違う人々が皆注目しているのである。「かわいいねぇ」「小っちゃいね」「すごいねぇ」小声ながら、何かしら言葉を残して去っていく。一本道を歩いているだけで、この小さな生命は、たくさんの人から愛されている。その事実に改めて驚かされた。たしかに、小さい子がそこにいるだけで、無意識に注目してしまうこと、わたしにもある。話しかけたり、バイバイと手を振ってみたり、そういうこと、わたしもしてる。子どもというのは、存在するだけで愛されるのだ。これって、大人になると忘れてしまう感覚だけど、誰しもがそういう時期を経て、成長してきたんだよなぁ。かわいい、かわいい、と愛された過去が、あったはずなんだよな。それがいまでは条件付けとしての愛情しか与えられないように思い込んでいる。収入が高いから好き、ルックスがいいからスタイルがいいから好き、秀でた才能があるから好き。べつにそんなもの持ってなくたって、存在しているだけで素晴らしいはずなのに、愛されることを忘れた大人たちは、大切なことを失っていく。

 

 これはまた別の、小さな生命の話。先日、二か月振りに恩師のお宅へお邪魔させてもらった。もうすぐ2歳になるお子さんが、それはもう可愛らしい声音で単語を喋っていた。前回会ったときは喋ってなかったのに......他人ながら、子の成長を身に染みて痛感した瞬間だった。綺麗に発音できている単語もあれば、まだ少し拙い発音もあって、嗚呼、思い出しただけで愛くるしい。ただ酒に酔って潰れて吐いて、わたしがそんなことを無意味に繰り返している間に、ものすごい勢いでこの子は成長している。年齢とかそういうのは関係なく、ただ素直に尊敬することしかできない。「やばいな、僕はなにも成長してない…」と呟いたところ、「大丈夫、大人になっても後天的に成長することは可能だから!」という恩師らしい明るい助言が、自分の情けなさを浄化してくれるようであった。

 

 人間という生き物が、いくつになっても成長を続ける赤子なのだとすれば、その成長を諦めた時に、死は訪れるのではないだろうか。生きているだけで、たくさんの壁に衝突する。そこで諦める人もいれば、諦めずに壁を乗り越える方法や破壊する方法を考える人もいて、その最中で人間性が顕著にあらわれる。生きるということは成長を諦めないことで、だからこそ、いまこの瞬間を生きるわたし達は、皆一様に素晴らしい。それだけで、生きているだけで、愛されるべき存在なのだ。