[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0101 散る為に、咲く

 

 最近、苦しさを感じる時間が少なくなった。

 

 人には人の苦しみがあって、その苦しみを等倍で解釈出来るのは自分だけだということに想い馳せる。

 

 数ヶ月前までが苦しみの絶頂期だったように思う。本当に苦しかった、その嘆きは当時の文章にも反映されている。とりあえず”鬱”みたいな、現在はその”鬱”どこいった?みたいな。何故あんなにも苦しかったのだろうか、逆に現在は何故こんなにも平静を保つことが出来ているのだろうか、と考える。

 

 収入が大きく増えた、素敵な恋人が出来た、価値観が一新されるような本に出会った、そのどれにも当てはまらない。唯一の変化と言えば、これまでとは比べ物にならない程に文章を書くようになったことかしら。

 

 書いたり書かなかったり、書いたとしても公開しなかったり。何となくこのままでは私自身が、そして言葉たちが沈みゆく一方だということは理解していた。これまでは、その理解から目を背け続けてきた。ずっと逃げながら生きてきた、挑戦しなければ敗北することはないから。怖かったのかもしれない、惨敗するのを恐れていたのかもしれない。そうこうしているうちに、ただ年月だけが過ぎてゆく。

 

 文章を書く行為は、物凄くエネルギーを消費する。ただ指を動かしているだけなのに、心が強く締め付けられたりする。前記事なんかはその締め付けが強すぎて、とても苦しかった。もはや半泣きになりながらキーボードをタイプしていた。それでも書きたいと思うし、自分は書くために生まれてきた、というよりも書かなければ生きていくことが出来ないと現在の私は思っている。

 

 そして、気がついたら毎日書いていた。他の何かに影響された訳でもなく、とにかく書いていた。それほどまでに、自分自身の一部となっている”書くこと”に対して真剣に向き合うようになった。自由に使える時間が減るし、周囲との関わりが減るかもしれないけれど、それでもいいから書こうと思った。

 

 一つの物事に全力で打ち込む楽しさを知った。如何にこれまでの自分が惰性の中を生きてきたのかが痛感させられた。何かを創る為には、世界から要素を吸収する必要がある。本、映画、演劇、風景、要素となり得るものであれば何だっていい。これまで何度も眼球に取り込まれたであろう見慣れた風景達が、全く違う風景として映るようになる。着眼点がまるで変わった。日常のあらゆる一面を抽出して、要点や共通項をまとめていく。そして、主題として文章にする。

 

 他人との会話にもより集中できるようになった。相手が何気なく発した一言が、深く記憶に刻まれることがある。その言葉は、集中して聞いていなければ宙に流れ消えてしまう。

 

 様々な経験が自分の文章に活きるので、能動的に行動するようになった。確かに時間はかなり制限されたけど、その一瞬一瞬の密度が増した。そして、人と関わる時間は以前よりも増えた。その代わり、著しく酒量が減った、アルコールの耐性も大きく減ったように感じる。本腰を入れて飲めば、いとも簡単に二日酔いになってしまう。それはちょっぴり悲しいけれど、仕方がないこと。

 

 

 心からやりたいと思えることに出会った。随分と前から出会っていたのに、それに気が付かなかった。書いている時間がとても幸せだ。どれだけ胸を締め付けられたとしても、その締め付けさえも愛することが出来る。書いて、たまに友人と会って、たまに異性とエッチなことをして、もうそれだけで充分だと思っている。私って欲張り過ぎかしら?。

 

 多分、これからも書くことを続けると思う。それが自分にとっての生きがいになっているから。生きることに理由など必要ないけれど、それでも敢えて理由を見出す為に私は書き続ける。思えばずっとそうやって生きてきた。泥だらけになりながら、生きてきた。

 

 そして、これからは咲くことを意識したい。

 散る為に咲く、花びらを纏うことはあくまで手段に過ぎないのだけれど。

 

 

 生憎、ブリーザーブドフラワーは好みではないの

 足早に散ってしまいたい、ただそれだけが全て。