現代は、情報社会である。
なんてこと言われなくても知ってるわ、って感じですよね。そうですよね。それでも、声を大にして言いたい。
「もう、僕たちに必要な情報はほとんどない」
例えばの話し、これを読んでいるということは生きてらっしゃるということだ。これを書いている私自身も生きている。互いに、現代を生きている。現状をある程度維持していけば、この先もしばらくの間は生きていけるはず。
勿論、社会情勢やその他最低限の情報源は必要になるかもしれない。それでも、生活を送る為に新作のiPhoneは必要ないし、他人極まりない芸能人の裏話なんかも必要ない。どうでもいい、そんなもので私たちの人生は何も変わらない。
必要に応じて、情報を取捨選択していけばいいと思っている。受動的ではなく、あくまで能動的に情報を掴み取る。インターネットは便利だけど、比率的に無為な情報の方が多いから、出来れば経験者や有識者に直接質問することが好ましい。質問出来る方が周囲にいない場合は、金を払って書物を読むこと。インターネットなんかとは情報の厚みがまるで違うし、そこから得た学びは自分の血となり肉となる。
そして、自分に必要のない情報は視界に入れない状態にすることが大事。もう、意味もなくインターネットを眺めることはやめてしまいませんか?。
[誰かと誰かが付き合った、誰かが誰かに何かをした、誰かは誰かと不倫しているらしい、申し訳ございませんでした謝罪報告、私はこんなに素敵な生活を送っています♪、ほんとあいつキモイ、死ね、このツイートを見たと伝えればドリンク一杯無料、www、幸せになれない死にたい、実力ない癖に出しゃばるな馬鹿]
テレビやネット上には様々な呪言が飛び交っている。そういった言葉が意図せず目に流れ込んでくることもある。自分には全く関係の無いことなのに、そんな些細なことで大きく疲弊してしまう。塵も積もれば山となる。次第に山は崩れて、その波に私は飲み込まれてしまう。
そして、広告が嫌いだ。あれは、人間の無意識に訴えかけてくる感じがする。視界に入った瞬間、脳裏に刻まれるような。しかも、その感覚を意識することなく、自然と購買意欲だけが搔き立てられる。パッと見では判別することが難しいステルスマーケティングというやり方もある。そんなことするぐらいなら堂々と宣伝しろや、と思うし、そのやり方を受諾しているクリエイター側にも吐気がする。軽快な笑顔で、とても恐ろしいことをしている。あぁ恐ろしい、でもそうやって社会の歯車は高速で回転している。仕方のないこと、それも仕方のないことなんだ。
でも、そんな聞き分けの良い大人にはなりたくない。
嫌なことを嫌だと言えない人生そのものが何よりも嫌だ。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、要らないものは要らない。いつだってハッキリしていたいなと思う。
インターネットも使い方次第では自分をいい気持ちにさせてくれる。生み出した作品を世の中に向けて公開することが出来たり、インターネットを介して好きな人に触れることが出来たり、現金を投資して物理的に"推し"を応援することだって出来る時代だ。自分がファンを獲得しているのであれば、応援してもらうことだって出来る。
そういえば、 「応援」と表現すれば聞こえは良いけれど、そこに金銭が発生している以上、それも一つのビジネスモデルなのか?ということを最近考えていて。
「自分がもし"推される"側の立場だったとしたら、作品や自分自身をなるべくビジネスに寄せたくないなぁ。でも、お金がなければ食べていくことが出来ないし、そうなると、表現とビジネスの折衷案を模索するしかないよな。どんな形であれどお金が発生するということは、作品だったり本人に大きな魅力があるということだ。その魅力が価値=金銭として反映されているだけ。それって素晴らしいことだし、推す側も推される側も幸せになれてWin-Winじゃん。最高じゃん。ってか自分ビジネスの才無さ過ぎて嘆き」
あぁ、また意味のわからない方向に話が脱線してしまった。
↑インターネットを徘徊していると、こんな無意味な文章に出会うことだってある。だからこそ、必要以上に入り浸ることはやめた方がいい。
テレビは広告の化身みたいな物だから自分には必要無い。インターネットは少しずつ心が削られてゆくので、適度な距離感を保つよう心掛ける。其れ等は非常に便利であり、大変愉快である反面、使用量法を誤ると脳味噌や心がぶっ壊れてしまう。
「諸刃の剣」
スマートフォンを見るたびにこの言葉が脳裏をよぎる。それは嘘、たまによぎる。
適度な距離感を探る度に、私は見事に敗北する。そして、脳味噌や心が一時的に故障してしまう。
それ故に、書き上げたこの文章さえも、適度に故障しているのだと思う。
了