[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0103 絶望の飼いならし方

 

 二日酔いで昨日を失いました。

 めっちゃ寝た、狂ったように眠った。

 

 この数年ほど、ほとんど休肝日無しで毎日アルコールを摂取していた。お酒を飲むことが生活の中で一番の楽しみになっていたし、お酒があるから何とか生きていけるような、そんな気がしていた。

 

 ただ、丁寧に一日一日の中を絶望してゆく。このまま咲くことなく枯れるのだろうと自分自身を諦めていた、もうそれはそれで仕方がないと思っていた。早く時間を消し去ってしまいたくて、暇があればアルコールを喉に流し込んだ。

 

 そんな退廃的な人生消費の中でも、良い気付きはあった。それまであまり睡眠時間を確保出来ていなかった=重要視していなかった私が、とにかくたくさん眠るようになった。酒を飲んで、眠る、夢の中を駆け巡る。そうすることで、少しだけ体調が良くなった(ここではアルコールが心身に与える影響を度外視しています)。睡眠の重要性を知ることになった。

 

 それでも、心はどんどん不安定になっていった。一喜一憂することが増えた。自分自身を傷つけることはもっと増えた。終いには死ぬことばかりを考えるようになった。

 

 

 具現化されたデカダンス。そんな自分にもやりたいと思えることが見つかった。一銭も生み出さないかもしれないけど、それでもたくさんの時間を費やしたい。

 

 たくさんの時間が必要だった。作業時間を確保する為に、朝早く起きることにした。しっかりと眠る為に、夜の時間を削り落とした。まだ色々と試行錯誤中だけど、最近はお酒を飲まない一日が増えている。

 

 毎日飲むことが当たり前の状態から、飲まないでいることが当たり前の状態になっている。たまに飲むお酒は、とても美味い。そしてものすごく酔ってしまう。

 

 ”ソーバーキュリアス”という言葉をご存知でしょうか?。最近世に広まりつつある一つの価値観で、「体質的にお酒は飲めるけど、あえて飲まない生き方」を意味するらしい。お酒を飲むと全てにおいてパフォーマンスが著しく下がり、基本的に百害あって一利なし。それならば飲まない方がいいんじゃない?という合理的な選択。「呑まない若者」と形容される方達もこれに当てはまる。

 

 自分は最近、この価値観に注目している。

 これまではお酒が人生のすべてのように錯覚していたけど、実際には全然そんなこと無かった。酒を飲むと全てのやる気が放出されて、頭がボーっとして何もしたくなくなる。一時的に現実から目を背けることが許される。でも、どうせ後から現実は自身の眼球を突き刺しにくるだろう。それならば、素面のまま冷静に痛苦と向き合う方がいくらか建設的ではないか。

 

 だからといって、完全に断酒しようと言う訳ではなくて、少しだけ素面の時間を増やしてみようということ。やっぱり飲む時にはガッツリと酒を飲みたい。けれど、決してそれは毎日じゃなくてもいい。飲む時は”酒を飲む”と意気込んでアルコールと向き合いたい。もう生半可な気持ちでは飲みたくない。

 

 そして、一昨日は酒を飲む日と心に決めて、一人夜の街へと繰り出した。

 

 気が付けば終電は消え去っていたし、気が付けば何杯飲んだのかもわからなくなっていた。意識はまだハッキリとしているつもりだったけど、気が付けば家に到着していて、気が付けばベッドに横たわっていた。

 

 「寂しい」この一言に尽きる。

 

 金を支払い、時間を消費し、絶望を獲得する。”あれ、僕は一人で何やってるんやろ”。そんな虚無に身を委ねながら、ゆっくりと瞼を閉じて眠りについた。そこに涙は流れなかった。

 

 ここから一つだけ得られた教訓は、自分はもう一人では飲まない方がいいということ。定期的に自分を傷つけたくなってしまうのは、一種の歪んだ愛情でしょうか?。ただ寂しさが膨張するだけ、そこに虚しさと絶望を添えて。

 

 

 二日酔いの度に学び得ることがある。その学びを次に活かさないから何度も二日酔いを繰り返す。でも、今回のは特に寂しかったなぁと思う。寂しくなると、性欲が増し増しになる。寂しい獣、孤独な獣は、ただ苦しいだけ。そしてちょっぴり、悲しいだけ。

 

 お酒を飲むときは誰かと一緒に会話をしながら

 そんな未来を夢見つつ、今日を素面で駆け抜ける