[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0179 砂埃

 

 例えば私の年収が一千万円になったとしても、現在の生活は変わらないのだろうな。

 

 寒空の下を散歩している最中にそんなことをふと思った。変わらないというよりも、現在をこのまま続けていくんだと思う。現在の私は高収入とはかけ離れた存在だけれど、それでも割と金銭的には不足なく生きている。

 

 高価な食事も、衣服も、装飾品も、私の目の中では輝きを失ってしまった。絶品とされる料理も最終着地点は下水道だし、服も燃やせばただの灰になる。装飾品で人間の価値や魅力は変わらないし、高級感をいくら演出したところで周囲に誰も居なければ対照的に心が貧しくなる。

 

 昔は物欲にまみれていたけれど、”いくら物を手に入れても心の隙間が埋まることは無い”ということに気付いてからは自分でも驚くほどに欲求が消滅した。あったら便利そうだなと思う物はいくつかあるけど、別にそれが無くても生活に支障をきたすことはない。そもそも買い物は大きな脳疲労を感じるから、新たに物を買う行為は苦痛でしかない。そうやって、段々と物を買わなくなってしまった。

 

 食事に関しては味音痴なこともあり、興味関心がほとんどない。一人で行う食事に関しては栄養素と効率性にステータスを全振りした食事内容を毎日繰り返し食べている。もう死ぬまで同じメニューで良いと思っていて、”今日は何食べようかな”と考えること、それ自体にものすごく苦痛を感じる。ある意味、ここにも強いこだわりがあるのかもしれない。

 

 自分が好きだと思うことは、あまりお金を投じなくても楽しめることが多い。文章を書く、本を読む、酒を飲む、運動をする、温泉に入る、映画を観る、よく眠る。こうやって整列させるとめっちゃインドアだなと自分でも思う。基本的に家で過ごして、必要に応じてジムや銭湯や映画館や職場に足を運ぶ生活スタイルが気に入っている。

 

 勿論、ある程度のお金が必要な趣味等を否定している訳ではない。それでも、娯楽に満ち溢れた現代において、もうそこまでお金を使わなくても生きていけるのではないかと思っている。もっと満足感が欲しいから、もっと刺激が欲しいから、そういう一時的な感情で限りある資産が消えていく。多額のお金を投じてその後に残る虚しさを購入している。特に飲み会翌日の二日酔いなどは、多くの時間やお金が消失する。脳が痛いほど何度も味わった過去だからこそ、もう静かに過ごしたいと思うようになった。

 

 

 そんな生活を続けていると、使えるお金が増えていく。その増えたお金をどうするか考えた時に、直感的に”人と過ごす時間に使いたい”という思いが浮かび上がった。

 

 これはちょうど一年前のお話し。旧友たちと計4人で忘年会をした。楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、お会計は自分がクレジットカードでまとめて支払いを済ませ、店を出た後に各々からお金をいただいた。いわゆる”割り勘”という形を取らせていただいたのだけれど、これが物凄く申し訳なくて、それと同時にとても悔しかった。

 

 その月はあらゆる類の飲み会続き+一人飲みを繰り返していたこともあって、経済状況が中々に厳しかった(クレジットカードの請求額を見て驚いた)。完全に自業自得なんだけど、その時のわたしはそうすることでしか酒を飲むことでしか生きていられなくて、いま思い返してもあの時は破滅的な日々を繰り返していてよかったと思える。

 

 だから、割り勘という手段を取ることしか出来なかったことが本当に悔しかった。3人には日ごろからお世話になっていて、精神的におかしくなっている時にただひたすらに話しを聞いてもらったり、一緒にお酒を飲んでくれたり、家にお招きいただき手料理を振る舞っていただいたりした。その感謝を形として伝える表現方法の一つがお金であると思っていて、それこそが正しい使い方なんじゃないかな。それを実行出来なかったことが申し訳なくて、本当に悔しかった。

 

 誰かと一緒にご飯を食べると、たくさん会話が出来る、美味しい料理が食べられる、美味しいお酒が飲める。それに応じて金銭が発生するけれど、そのかけがえのない時間に対してお金を支払ったと考えれば安い物だなと思うようになった。最近ようやくこの考え方が出来るようになってからは、一人で飲みに行くことが無くなった。自分の中で一人飲みは、何に対してお金を支払っているのかわからなくなったから。

 

 ”人と過ごす時間にお金を使いたい”という思いは、現在の自分を明確に表している。やっぱり人との繋がりがない生活は心の内が枯れてしまう。厭世的であるかもしれない、人嫌いであるかもしれない。それでもわたしは、大切な人と過ごす時間に、多くのお金を使いたいと思っています。

 

 

 孤独でも鬱でも何だっていいけれど、

 たまには孤独じゃない瞬間があってもいい

 

 そう言ってもらえている気がするのです。