[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0178 月の欠片

 

 数日前に負傷した右手人差し指。ティッシュをかざすと未だにほんのりと血が滲むから、それだけで生きていることが面倒くさくなる。

 

 ネガティブが過ぎることは自覚している。指の裂け目から生まれる希死念慮は一体どれほどの図体なのだろうか。物事を上向きに前向きに考えることが難しくて、地面だけを見てトボトボ歩いている感じ。客観的に捉えても尚、思考の方向転換を図ることが難しい。

 

 自分でも笑けてくる。これでも運動はしてるし、湯船に浸かって温まっているし、起き抜けにはストレッチをしているし、心の内に溜まる罵詈雑言を日々ノートに書き出している。心と身体は連動しているとよく記されているから、心身ともに動かしたり温めたりしているつもりなんだけど、心はいつまでも変わらず下向きなままで困ってしまう。

 

 逆に、上述したことをしていなかった場合はもっともっと落ち込んでいるのだろうか。重力に勝てなくてベッドから動くことが難しくなったり、何もかもをすっ飛ばして当の昔に自ら命を断っていたかもしれない。それはそれでよかったのか、真意のほどは定かではないけれど、少なくとも現在の私は浅く呼吸を続けています。

 

 好きなことをして生きている、やりたいことに使う時間があること、欲しいものが見当たらないぐらい物質的に満足していること。あらゆる要素で生活の中が満たされてるはずなのに、それらを総合的に捉えた時には大きな消失感に襲われる。つまりのところ、わたしはそもそも”満たされること”を求めている訳ではなかった。寧ろ、満たされない一部分が心や身体を動かす活力となり、結果的に成果に繋がった。だから、消失感は悪いことではないんだ。消失感を悪い感情と紐付けしてしまっているから、それを必死に拭おうとする。そしてどこまでも心が欠けてゆき、その範囲が一定に到達すると”破損”に変わってしまう。

 

 別に生きている上で満たされなくてもいいじゃない。何もかもが満たされている状況なんて有り得ないから、広範囲に大きな満足感を得ている場合は気を付けた方がいい。これは月と同じ原理で、時間が経てば必ず一部分が欠けてしまう。何かが急に崩れたように感じる時がくる。でも、それはあなたにとって不可避な出来事で、それと同時に必要な欠損でもあると思うの。わたしの家族コンプレックス、私の場合は「家族」が満たされていない。それはそれは大きな欠損で、もうこの部分は埋まらないと思っている。苦しいと、寂しいと嘆いているけれど、その姿こそがわたしを私たらしめるものであって、その欠けた部分が無ければこうやって文章を書く事も無かったと思う。だから、わたしはこの欠損を認めた上で、不器用ながらにも愛してあげたい。この苦しみは、不足を愛する練習によって発生しているのだと考えると、それさえも一つの欠損のように感じられて何だか楽しくなってしまう。

 

日々の中で、わたし達は世間や社会から暴力的なカテゴライズを下される。ただそれに従うよりも、自分の中で芽生えた唯一無二の満ち欠けを、大切に抱えて生きていけばいいんじゃないでしょうか。

 

 

 

 月が綺麗だと言う、

 夜を照らす月が好きだと言う、

 

 目には見えない欠けた部分も、

 その美しさの一部なのです。