[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0126 生きることについて

 

 前回、完全に書くことが生活の一部になったと書いた。

 

 「逆に、この状況で書かなければどうなるんだろう?」

 

 そんな単純な疑問が脳内に浮かび上がった。一度気になったことを試さずにはいられない性質の為、試用期間を三日設けて書かないことを徹底してみた。

 

 使える時間が激増するので、無計画に飲みに行くことも出来た。ゆっくりと本を読むことも出来たし、映画を観ることだって、運動をすることだって出来た。

 

 「書く事は一旦忘れて、これまで出来ていなかったことに専念しよう」

 

 そう意気込んだ所までは良かった。しかし、実際にはこの三日間ほとんど何もしていない。ただ仕事をこなして、意味もなく酒を飲んで寝るような生活。最終日は飲みに出かけたけれど、なぜか頭の中では虚無が蔓延していた。本も思っていた以上に読めなかった、心が重くて運動は全くしていないし、映画は一本たりとも観ていない。

 

「あれ、自分何のために生きてるんやろ」

 

 想像していた以上に、苦しかった。瞬く間に精神状態が悪化した。急加速する鬱症状、暴発する強迫行為、体内で滞るエネルギーと溢れ出る鬱憤。そんな自分がとても嫌になった。書いていた時には満ちていたはずの繊細な情動は後欠片も無く散った。

 

 たったの三日、然れども地獄のように長い72時間であった。今回の試みで確信した、自分は書き続けることでやっと「己」を保つことが出来る。心の中で渦巻く、脳内で暴れ回る、そんなあらゆる負の感情を文字として、言葉に落とし込まないと生きていくことが出来ない。そうしないと、立っていることすらままならない。

 

 だからこれまで、生きることが嫌だったんだ。ただ苦しさしか感じなかった。書く事は知っていたけど、それを続けることは知らなかったから。自分の中に負の感情だけが溜まり続けて、爆発寸前だった。というか、既に事後だった。そうやって毎日死ぬことばっかり考えて、友人にもたくさん迷惑をかけて、それでも死ねなくて、死ななくて、そんな弱い自分が心の底から大嫌いだった。

 

 そんな自分がやっと見つけた一つの生き方。ほんの一か月程度で人生が大きく変わった。自分のことを少しだけ「いいじゃん」って思えるようになった。今でも情緒不安定な部分は根付いているけれど、不安定な時は不安定だということを言葉に落とし込めばいい。そう思えるだけで、一種の全能感みたいなものが身体中を満たしてくれる。自分に対して「生きていいんだよ」ってことを投げかけている。生の肯定、存在の肯定、肯定の更なる肯定を自分自身で行っている感覚。これまで誰に何を言われてもただ苦しかった、欠けていたのは他の誰でもない「私」だったんだ。この三日間で、わたしはそれを確信することが出来た。

 

 有難いことに、たまに書く事を褒めていただける機会がある。「継続できてすごい」なんて言ってもらえると何だかとてもむず痒いけど、純粋に嬉しい。それでもね、現在の自分は書くことでしか生きていけないから続けているのであって、そうでなければ続けられなかったと思う。やりたいからやっている、というのは勿論間違いではないけど、”やらなければ生きていけない”って表現が何よりも核心を突いている。たぶん、自分はとても不器用だから、上手く世の中に適応出来なかったんだと思う。だからずっと苦しかったし、ずっと虚しくて哀しかった。そんな自分が寸分の狂いもなく適応できたのが文章だった。初めて、肺にたくさんの空気を取り込めた気がした。

 

 この出会いが必然的だったなんて思わない。だって、人間は探しているものしか見つけないから。即ち、探さなければ何も見つからない。見つけても、触れなければ世界は何も変わらない。わたしは偶然それを見つけた、あとはずっと触れ続けるだけ。そうしていたい、そうしなければ生を送れない、それだけで理由としては充分だろう。わたしは世界を創っていくよ。

 

 

 「生きていて、ごめんなさい」

 なんて呟くあなたを、きっと私が抱きしめてあげるから