[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0210 影の中からごきげんよう

 

 自分がこれまでに書いてきた”モノ”を見返していた。

 

 元々自分が文章を書き始めたのは「死にたくても、それでも生きていていい」という頭の中に浮かんでいた生命の肯定を言葉に落とし込みたかったから。それを誰かに読んでもらいたかったからなのだと記憶しています。”絶望の中に存る希望”とか”光と影”とかそんな感じのことを文章として表現したかった。物事には必ず対極的な二面性があって、少し見方を変えるだけで不安感情が解消されることがある。そういう文章が書きたいと思い、このブログを頻繫に更新するようになっていきました。

 

「駄目な自分でもいいじゃない、いくら他人から否定されようとも、別にそれでもいいじゃない。ここに戻ってくれば、きっとあなたは大丈夫だから。」

 

 そんな肯定的居場所を作りたかったはずなのに、いつの間にか自分の中から希望だけが消えていて、気が付いた時には絶望の感情に身を任せキーボードを連打するようになっていた。一年前の自分と、現在の自分では書いていることがかけ離れていて、楽しみながら書いていた過去の自分を懐かしむ気持ちでいる。現在のわたしは書かなければ自分を保つことが難しくなってしまって、書きたいものというよりも行き場の無い感情をただ吐き出しているだけに過ぎない。今でもたまに楽しく書ける日があるのだけれど、その翌日には脳がぶっ壊れてしまったりするから予測不能で困ってしまう。

 

 気分が中々定まらないでいて、この間再開した友人に「調子はどう?」と聞かれたので「自分自身が不安定過ぎて困ってる」と返答した。そしたら「常に不安定ってことは、逆に安定してるってことじゃない?」と一言。言葉のボディーブローが見事顔面に炸裂した。彼女はなんて柔軟な考え方が出来るのだろう、どの角度から見ればその考えが浮かぶのだろうと思わず感心してしまった。それと同時に、私はこのままでいいんだと思えた。このままでも生きていていいんだ、心を丸ごと抱きしめられたような気持ちになった。

 

 それでも、やっぱり生き辛くて苦しくて水が無ければ雨も降らなくて、いつまで経っても干乾びた状態でいることを回避する為に書く書く書く、とにかく吐く。みたいな感じの文章がここ最近の投稿では列を成していて、自分としては嫌いではないんだけど、客観的に見た時に「それって一体どうなのよ」って感想が道端に転がりました。

 

 死にたい辛い苦しいもう駄目だ死にたい死にたい死にたい、みたいな単調な嘆きだけで構成された一文を読んでくれた人は一体何を思うのでしょうか?。「あぁ、また言ってる」「こっちまで暗くなるから読まんとこ」「いつも一緒でおもんない」と自分なら思います(多分)。自分の文章を読み返していて口の中に感じた苦味は、ブラックコーヒーのせいなのか、はたまた自分自身の愚かさから発生したものなのか、判別が付かずに喉元を締め付けられているような感覚になりました。

 

不幸でいるのは本当はとても簡単で

幸せになるほうがずっとずっと難しい

 

 東京喰種を読み返していて、胸に突き刺さる言葉があった。優しいガラスとその破片、自然発生はしない幸福と、無意識のうちに選択している不幸。これもわたしに刺さったままの光と影であり、眩しくて光を避け続けた結果、手の届かない場所に追いやられた幸。結局は全部自分が選択してきたことなのに”苦しい”だなんて母に縋るような声を出して、唯々自分が情けなくて仕方がないよ。ほら、またそうやって自罰的になる。ずっと楽な選択ばかりをしてきたから、置かれている現状は仕方がないことでしょう?いくら叫ぼうとも自分が変わらなければ現実は何一つとして姿を変えないでしょう?だからこそ、今だからこそ、現状の中にある細々とした幸福を探しに出かけるタイミングなんじゃないかな。自分一人で会話していて怖ろしいね。ちがうよ、一人と一人で会話をしているから二人だよ。二人は一人で、一人は二人だ。絶望と希望、影と光、不幸と幸、私の中で生きつづける二面性だ。

 

 

 影の中で生きていてもいい

 あなたもわたしも、そして これからも。