[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0127 変わりゆく夏、終わる夏

 

 

 N.027 夏の沈む音が聞こえる - [No.000]

 

 

 今年も姉の命日が過ぎ去った。

 

 ちょうど一年前、姉への想いを書き綴った。自分で読み返してみて思ったけど、現在と比べると随分文体が異なる。これ本当に自分が書いた?と思うほどに口調が柔らかいし、スラスラ入ってくる(個人的に)。当時の文体に戻そうかしら、なんて思っても、同じように書く事は難しい。同じ絵を描くことが不可能なように、過去と同じ文章を書く事もまた不可能なのだろう。

 

 それでも、いつだって私はわたしで在った。姉の墓参りへ行く度に心に浮かぶのは「正直、これって行っても行かんくても変わらんよな」ってこと。滞在時間は10分にも満たないし、長時間祈りを捧げたところで何が変わる訳でもない。それでも年に数回足を運ぶのは、気が付いた時には習慣になっていたというか、誰に何を言われた訳でもなく、自分自身の中で知らず知らずのうちに流れが形成されていたから。現在では、そんな流れも悪くないなと思っている。

 

 墓前に立ち、顔の高さで両掌を合わせる。大体一分にも満たないであろうその時間の最中は、現状報告を心中で唱えている。「元気でやってますよ」「何とか生きています」「そちらの方はご機嫌いかがでしょうか」のように平和な言葉ではなくて、「死にたい」「めっちゃ死にたいねんけど」「なぁ、どうしたらいい?」「早よそっち行きたいって」という具合に呪言を唱えている。何とも卑屈な墓参りだろうか、自分が一番そのことを理解している。

 

 去年がこれまでの中で一番酷かった、心が荒れ狂っていたから。きっと、自分の声は、自分の祈りは、届くことがないだろうと嘆きながらも、救いを求めて墓参りに行った。

 

 やっぱり何も変わらなかった、ただ虚しさだけが増幅した。結局、自分自身が変わらなければ世界は表情を変えようとしない。せめてもの抵抗として、重く抱え込んだ感情を文章として残すことにした。それがちょうど一年前、そして100記事前の出来事だった。

 

 この一年間、紆余曲折を経て現在に至る。今年の墓参りは楽観的で心が晴れた気分だった。瞬間的な心の風向きかもしれないけれど、たった一年で人間はここまで変わるものなのかと、自分でも感心してしまった。墓参りの際は、子供が好みそうなお菓子やジュースをお供え物として持参している。今年は姉とお酒を飲んでみたくて、ストロングゼロをこっそりと一緒に供えるべきか真剣に迷った。結果的に止めた、外は物凄く暑かったし、炎天下の中をほろ酔い状態で歩くことが苦痛に思えたから。それでも、そんなユーモラスなことが頭に浮かぶぐらい、わたしは本来の柔軟さを取り戻していた。祈りの最中も、呪言を唱えることは無かった。

 

 

 過去の自分も現在の自分も、間違いなく死生観の中を生きている。それが私にとって、かけがえのない人生だから。右往左往する内に、ただ楽しむだけでも、ただ苦しむだけでもいけないことが見えてきた。大切なのは緩急であって、その瞬間の自分自身に対して素直になってあげればいい。不幸だと嘆けば、人生はどこまでも落下する。そのことを否定するつもりは毛頭ないけれど、落下するだけの人生はどこまでも息苦しい。だから、たまには落ちながら空を見上げる瞬間があってもいいと思うんだ。その時に少しでも”綺麗”と思えた時には、自分自身が空に開放されるイメージを持って、不器用でもいいから翼を羽ばたかせてみてほしい。失敗したって大丈夫、そうすることで、世界が少しだけ変わるはずだから。あなたが変わっていくはずだから。

 

 

 「また来るね、」

 

 それだけを姉に告げ、わたしは素面で帰路を歩んだ。