[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.075 normophilia.

 

 

 

 

 久々に、自分が考えていることを好き勝手書き綴ろうと思う。

 

 何となく心が重い感じがする、そんなことを思いながら淡々と日々をこなしている訳だけど、逆に心が軽やかな瞬間なんてこれまであったんだろうか。規則的に来訪する日常が何をせずとも勝手に過ぎ去っていって、自分は自分ではなく傍観者のつもりでそれを眺めてる。虚無、これは圧倒的な虚無だ。ぽっかりと空いた果ての無い深い穴をずーっと落下しているような感覚があって、自分が何を求めているのかわからない。

 

 けれど、それで心を病んでいる訳ではなくて。そうではないんだけど、心が正常に反応してくれないから困ってしまう。「別に何もしなくてもいいんじゃないの」ということをお気楽で怠惰な自分が言ってくれるけど、そうじゃないんだ。”何かをしなくては”と焦っている訳ではない、”何もしたくない”と嘆いている訳でもない。どちらともいえない、宙に無重力で浮いているような感覚が、じわじわと僕の脳みそを締め付けていくような感じがある。

 

 誰かと関わる上では、なるべく明るく振舞いたいなと考えている。根本的に、自分は性格が厭世的で暗い人間だと思う。文章だって暗い雰囲気の文体が好きだ。だからこそ、人と接する時には明るい空気感を作りたい。何の生産性もない下らないジョークをポロポロと口から零していたい。一人の時も、誰かといても、基本的に虚無だ。だからこそ、誰かと一緒にいる時ぐらいヘラヘラと笑っていたい。哀れなピエロでもいい、観衆がいる時だけは踊り続けていたいんです。

 

 虚無の最中でもピエロはふたつの楽しみを見つけました。それは、本を読むことでも文章を書く事でもお酒を飲むことでもなく、一つは花のことを考えている時、もう一つは自殺について思考を練っている時です。

 

 なんでかわからないけど、花がとても好きになった。植物とは無縁の人生を送るのだと思っていたけれど、人間どう変わるかわからないものだな。見て楽しい、嗅いで楽しい、知って楽しい。家に花を飾りたいと考えている。”いま一番欲しいものは?”と問われれば、美しい花瓶と刺激的な花束と答えるでしょう。すぐに買うことは出来るけど、花を手にするということは、花に憧れている自分を失うということだ。それはそれで何だか寂しい気がして、中々踏み出すことができない自分がいる。

 

 自殺について。どう頑張っても、やっぱりここに辿り着いてしまう。そこに美徳を見出している訳ではないけれども、自分はこの概念が好きなんだ。食物連鎖の頂点に君臨する人間のみが、時に”自殺”という行動を選択する。他の動物は自殺しない、そもそも脳に自死という概念がプログラムされていない。本当に、不思議で魅力的だと感じる。もう、自殺願望や希死念慮から目を逸らさなくてもいいんじゃないかと思った。”死にたい”と思っていても、そのまま生き続けることが出来る。寧ろ、”死にたい”があるからこそ生きることが出来ているのかもしれない。そうなのだとすれば、自殺願望は自身の支えになっていると言えるんじゃないだろうか。少なくとも僕はそのように思うし、実感している。自殺の概念が一つの大きな支柱になっていて、その柱が崩れたりした時には、自分自身が失われる気がするんです。そこまで大切にしたい思いならば、気が済むまで向き合おうと思いました。一つの事象として、概念として、支えとしての自殺。もっと深くまで進みたい、まだまだ僕は物足りない。この呼吸が続く限り、僕はその思いに縋りたい。

 

 

 あまり深く考え過ぎないで、書きたいことをあるがままに書き綴ること、キーボードをタイピングすること、言葉にすること、これらはどれも素晴らしいこと。たまにこういうのやりたくなる、と思うけれど、改めて読んでみると普段書いている内容とさして変わらないな。

 

 ということは、普段からそこまで考えることなく文章を書いているのかもしれない。何もかもが直感から形作られた言葉たち。それでいいし、何よりもそれがいい。