[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.052 乖離

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 割としっかりめにストロングゼロをキメながら当記事を書いています。文章とアルコール、ベロベロに酔っ払いながら文章を書いている時間が、”好き”の相乗効果で多重的な幸福感に包まれる。それ故に支離滅裂な文章をお許し下さいね。

 

 最近は、会社での仕事以外は誰にも会うことはなく、ほとんどの時間を自宅で過ごしている。自分の中では”引きこもる”という表現とは少し違うと思っていて、何故ならばジムに行ったり、銭湯に行ったり、カフェに行ったり、家の周辺を散歩したり、最低限の外出はしているからだ。丸一日自宅から出ない、ということはない。だけれども、これは以前の自分(少なくても二年前)からは考えられないことであって、これは一種の挑戦でもある。

 

 以前の自分は、ほとんどの時間を外で過ごしていた。特に予定のない休日でも身支度をして外に出向いていた。家にいると、嫌な事ばかりが頭に浮かんで心が苦しくなったからだ。自分の家が自分の家ではないという感覚、帰る場所はどこにもないという結論、沸き上がるあらゆる種類の孤独感に圧迫される絶望。そういった雑念ばかりが頭の中を占領するものだから、自分の家が好きにはなれなかった、ただ単純に嫌いだった。だからこそ他人の家が居心地よくて、時には一か月以上家を留守にすることもあった。あくまで所有物の保管倉庫であり、寝るだけの空間。自分の中での自宅とはそういう解釈であった。

 

 初めて発令された緊急事態宣言の時は死ぬかと思った。家に一か月以上も拘束され、知人と会うのも憚られる状況。本当に何もやる気が起きなかった私は、その期間中にアニメ鑑賞とアルコールに溺れた。勿論、その時は何一つ創作活動をしていなかったので、単純にコンテンツ受信装置として廃人と化していた。

 しかし、そんな生活をある程度続けていると、ある程度適応してくるのが人間というもので、ある日「あれ、自宅で過ごすのも悪くないかも?」と思うようになった。その内にジム、映画館、銭湯、などのあらゆる商業施設の営業が再開された。そこから廃人化した生活を再形成しようと意気込み、試行錯誤を繰り返した結果、「自宅で過ごすことをメインとして、必要な場合のみ外出する」という生活スタイルが形成された。(書き出してみるとめっちゃ普通や)

 

 幼少期から家で過ごすことをほとんど知らない少年だった為(それでも限りなく陰気でした)、本当にここ最近になってやっと自宅で過ごすことによるメリットを思い知ることになった。

 

・一つは、”あらゆる必要な物が揃っている”ということ。

 私は基本的に、「パソコン」と「本」と「アルコール」があれば幸せになれる人間です。勿論、それら全ては家の中に揃っている訳で、家の中であるからして”持ち運ぶ”という概念が存在しない訳です。また、「水」「コーヒー」「食物」「プロテイン」「サプリメント」等の摂取物も予め買い込んでおけば必要な時に必要なだけ体内に流し込める。家の中であれば好きな音楽を大音量で流すことが出来るし、プロジェクターで映画を観ることだって出来ます。もちろんいつだってトイレに行くことが出来るし、いつだって風呂に入ることが出来る、最高のベッドで眠ることだって可能です。エアコンで最適な室温を保つことだって出来ます。何よりも、ディフューザーやインセンス、ルームスプレーやサシェ、そして香水を思うが儘に使用して、空間を好みの香りで支配出来る。これって、控えめに言っても最高ではないでしょうか?

 

・もう一つは、”圧倒的にお金がかからない”ということ。

 これは本当にそのままで、家にいるとお金の消費率がとても少なくなる。「カフェ」で例えるなら、一杯500円するホットコーヒーが、自宅で淹れれば一杯数十円で済みます。「居酒屋」で例えるなら、一杯400円するハイボールが、自宅で作れば同じく一杯数十円で完成する。「Bar」で例えるなら、一杯1000円するスコッチが、ボトルを購入して自宅でグラスに注げば一杯100円程度で喉に流し込める。それらの飲食店では場所代やサービス料込みでの提供価格だということは重々承知の上です。僕は味とか価格よりもそういった空間が好きでお店に行くことが多いので、お店に行った時には遠慮なくお金を払わせてもらう。ただ、あくまで表面上の”価格”だけを比較した場合の話しです。家で過ごす時間が増えたことによって、金銭的な出費が圧倒的に減りました。

 

 

 そんな感じで、「自宅って最高じゃない?」って感じです。ありとあらゆるメリットを享受している一方、これらのメリットを一瞬で木っ端微塵に粉砕するデメリットがあります。それは「めっちゃ寂しい」ということです。

 

 そもそも、「他人に甘えない」という一種の依存からの脱却に向けて開始した自宅暮らしです。これまでの反動で”寂しさ”が攻撃してくることはある程度覚悟していました。一人きりの空間で長時間過ごしていると、自分自身との対話が増えます。ネガティブなことばかりを投げかけてくる自分、楽しかった過去を差し出してくる自分、早よ死ねやと言ってくれる自分とか、なんで生きてるん?と問いかけてくる自分。様々な自分がいて、そんな自分たちと向き合って対話している。これまではそんな自分たちの声から逃げていた、だから外の世界へと飛び出していた。けれど、いつまで逃げていても鬼ごっこは終わらないと思った、鬼を抹殺して終わらすしかないと思った。だからこそ、あらゆる雑音に対して、可視化してノートに書き出してみたり、こうやって記事にしてみたりしている。自分自身の声は無理矢理にでも形にしないと、読み取ることは難しい。

 

 そんな自分自身との戦闘の中で、ふと線が切れてしまう瞬間がある。その時に「めっちゃ寂しい」になる。なんだか居ても立っても居られなくなって、一人ではいられなくなってしまう。そんな瞬間でも、自分自身と戦わなければならない。ここで他人に甘えてしまっては、これまでの自分とは何ら変わりのない道を歩むことになる。けれど、会いたい、話したい。その葛藤が凄まじく苦しい。そんな葛藤に負けて他人に会ってしまうこともあって、後々そんな意志の弱い自分に対して絶望してしまうこともある。そうだとしても、これからも戦い続けるしかないのだろう。こんなにも儚くも朧気な寂しさに対して。

 

「産んでくれてありがとう」

とは思いません

 

「産まれてきてしまってごめんなさいね」

と思っています

 

けれども、

 

「こんなにも生きてしまってごめんなさい」

と思う事は、最近とても少なくなりました