[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.023 所詮、感情を持っただけの肉

 

「人間は探しているものしか見つけない」

 

 娼年 / 石田衣良

  


 

 

 ここ最近では、定型化した行動パターンを打破するべく、思いついた事はなるべく行動に移すことを心掛けています。結果的に続かなくてもいい、失敗してもいい、何よりも一歩踏み出すことに意味があると思うから。「暇な時間が人間をメンヘラ化させる。」これは経験豊富な友人が放った名言です(こういった言葉を自然と口から繰り出すことが出来る人間に憧れを抱きます)。以前にも何度か書きましたが、私は人生に退屈を感じています。人との関わりを最小限にして、自分の殻に閉じこもった結果がこれです。人間は社会的な生き物なのだと、改めて痛感しました。現在は色んな方と多種多様な話を交わしたい、そのように思います。それでも、割合的には一人で過ごす時間が多い訳であって、ただ本を読み続けることにもウンザリしてきました。本は好きです、それでもずっと一緒には過ごせない。退屈に耐えることが出来ないから、こうやって文章を書いたり、思い立ってYOUTUBEで動画投稿などをしたりしています。少しでも興味のあることをそのままの状態で放置することはとても勿体無いと思うんです。私は”やってみたい”と思う事が少ないからこそ、そう思った時には少しでも対象に触れてみたい、そのように思います。周囲から笑われてもいい、馬鹿にされてもいい、理解されなくてもいいんです。人生は自分自身が主人公、あくまで自己満足の物語なのですから。他人様に迷惑をかけなければ、そんな感じでいいと思っています。

 

 20歳ぐらいから続いている趣味の一つに、”動物の死骸撮影”があります。自然淘汰された、もしくは事故で絶命した動物の亡骸を見つけた時には、可能な限り写真に納めています。なぜそんなことをするの?と問われることがあるけれど、”死骸にとても魅力を感じるから”としか言いようがありません。どこが魅力的なの?と問われても、”直感的にそう感じる”としか表現の仕様がありません。何故だかわからないけれど、とても魅かれるんです。そして、死骸撮影をするようになってからは、不思議と死骸を目にする事が増えました。人間は探しているものしか見つけない、日常的にレーダーを張り巡らせているんだと思う。自発的に見つけようとしている、もしくは死骸が私に見つけてくれと言っている。無意識が意識的に変わった途端、対象物が急に目に留まるようになる。増えたように感じる。心理学ではこれをカラーバス効果というみたいですね。

 

 血縁者の妹と会う機会が年に数回あります。会うたびに「まだ死骸撮ってるの?」と問われる。「勿論撮ってるよ」と返答すると、「気持ち悪い」と言い放った後に笑われます。そんなこといって癖になってるんでしょうに、そう思いながら最新の写真を見せて差し上げると、ものすごく怪訝な表情を浮かべる。それなのに毎回写真を見たがるその様子は、多少なりとも血の繋がりを意識させられる。最後に会った時に「それだけ撮ってるんだったら、インスタに死骸写真だけをアップしていけばいいんじゃない?」と言われたことを、つい先ほど何気なく思い出した。後々は写真集として自費出版しようかなと考えていたのだけれど、まだまだ先になりそうだし、その時まで生きていられる保証はない。それならばと思い立ち、この度はインスタグラムを開設しました。

 

https://www.instagram.com/ooo.oo.ooo.o.o/

 

 早速、一枚投稿してみたけれど、運営側からぼかしをかけられてしまった。[この投稿はコミュニティ規定には違反していませんが、見た人を不快な気持ちにさせる可能性のある画像が含まれています。]との理由らしい。あくまで閲覧は自己責任でよろしくお願いいたします。(本当にわたしは気分屋さんなので、すぐにアカウントを削除してしまうかもしれないけれど)