[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0319 部屋の中に響いた声

 

 現在、わたしは一人暮らしをしているのだけれど、「いってきます」と「ただいま」を声に出すようにしています。そうした方が心に優しい、となにかの本で読んだことがきっかけで始めたことが、いまではすっかり習慣となっている。効果があるのかと問われると「うーん......」といった感じではあるけれど、なにも言わないよりかは、ちゃんと今日のなかを生きている感じがする。

 

 一人暮らしを始めたばかりのもっと若い頃は、そんなことしていなかった。無言で出かけて、無言で帰ってくる。当たり前でしょう、そこには誰もいないのだから。当時は自分の家が苦手で、嫌いで、できれば帰りたくない空間だった。インテリア、香り、空調、すべてを自分好みに設えたはずなのに、家に帰ることを避けていた。友人の家に入り浸ったり、ネットで知り合った人の家に入り浸ったり、とにかく人間がいる空間のなかに浸りまくっていた。内外問わず、あらゆることがコンプレックスだった当時の青年は、一人になることを恐れていたのだな。思い返すほどに、一人暮らしが向いていない人間だったと実感する。

 

 他人の中に自分を探すような生活を続けていると、ちょっとずつ心が壊れてきて、自分が見えなくなってくる。焦燥感、気づいたときには時すでに遅しで、動けなくなってる。他人を通してしか自分のことを見つけられないなんて、痛々しいばかりの過去である。どれだけ周囲を見渡しても、どこにも自分は見当たらないのにね。鏡を見ることでしか自身の姿を容認できないけれど、その姿さえも左右は逆転している。自分の目で、ありのままの自分の姿を見ることは物理的に不可能なのだ。セルフィーに真実は映らない。それならばどうすればいいか? 一人になって、自分と向き合う時間が必要なのだった。気持ちを言葉に落とし込んで、自分は一体なにを考えて、なにを感じながら現在を生きているのか。そういうことをちゃんと考える一人の時間が、当時のわたしには圧倒的に足りていなかった。

 

 わたしが読書を好きな理由は、本は一人でなければ読めないからです。たとえば、映画は二人で観ることができるけど、一冊の本を二人で読むことは難しい。本を読みたければ、必然的に一人になる時間を捻出する必要があって、その工程をとても好ましく思う。たくさんの本を読めば読むほど、一人の時間が増えていく。いわゆる読書家と呼ばれる人たちは、皆一様に孤独なのである。いや、ここでは”孤高”といった表現が適切だろうか。本を読んでいる瞬間は、著者と対話していると同時に、自分自身とも対話しているのです。孤独は人を成長させる。だからわたしは、本を読んでいる人が好きなのかもしれない。

 

 本を読みたい気持ちが大きくなり、最初はカフェやBARに通い読んでいたのだけれど、カフェはコーヒー一杯で長時間居座るのにも限界があるし、BARは途中で誰かしらに話しかけられる。他にも色々な場所で本を読んだ結果、一番自分に適していたのが家で読むことだった。あんなにも嫌いだった自分の家、案外悪くないものだな。少しずつ環境を整えて、読み書きをすることに特化した部屋を目指している。いまはほとんど完成していて、残るは引っ越しと、最後にふかふかソファを導入するのみとなった。以前よりも掃除するようになり、食材や飲み物も買い込むようになり、いまとなっては自分の家が大好きになった。人間、変わっていくものだな。この部屋は最初からなにも変わっていない。ずっと寄り添ってくれていたのに、わたしはその空間を蔑ろにしていた。ごめんね、これまで雨風を凌いでくれていたのに。二日酔いのわたしを寝かしつけてくれたのに。外界からわたしを守ってくれていたのに。そういうこと思うと、なんだかこの家も生きている気がしてきて、自分と同じように呼吸している気がする。そんなかけがえのない居場所に対して、「いってきます」と言うことは、それだけで心が少しだけ温かくなるようで、気持ちいい。

 

「ただいま」と言ったら「おかえりなさい」が返ってくるような家に住んでみたい。そんな願望があるけれど、なにも返事がない現在の生活も悪くないと思える。家と一緒に暮らしている、空間と共に生活しているようなこの感覚を、大切に記憶の中へと閉じ込めておきたい。意味もなく、「メリークリスマス」と呟いてみた。その後に続くのは静寂で、「そりゃそうだよな」と少し肩を落とした。異なる声音で、鈴の音で、発した一言がかき消されるような、そんな騒がしい未来を妄想しながら、部屋は暗闇だけを深めていった。