[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0291 騒がしい、あたま

 

 もういよいよ冬の到来、吐く息が白い靄となって空に消えていく、それだけがすこしうれしい。それ以外は、もう陰鬱とした日々を繰り返していて、以前のような、一か月前のような快活さは一体どこへやら......といった塩梅でございます。いまいち体力が戻らないというか、精神力もどこか途切れ途切れでいて、なんとなく、重い。優しい鉛を抱きかかえているような、そんな重さに季節を投影しながら、自暴自棄から逃げ回る毎日です。

 

 これが季節鬱というやつなのか? と考えてはみるものの、年中なんらかの鬱っぽさが体内に住み着いてしまっているので、一体なにが鬱で、なにが鬱でないのか、感覚が麻痺している次第なのだった。「もう二週間以上運動してないな」とか、「やばい最近マクドナルドしか食べてない」とか、「飲みたくないけれど飲みたくないけれど、お酒を飲んでしまう、私」とかとか。それでも痩せ続ける身体を他人事かのように眺めては、カロリーという概念がほろほろと崩れていく。エビデンスとやらが、欲しい。科学的証拠が、自分の身体にも、欲しい。そんなことを思いながら、そして手を油まみれにしながら、栄養素が削がれた物体ばかりを口に放り込んでいる。

 

 そんなこんなで、最近は家で本ばかりを読んでいます。もうカフェに向かう必要性も見失ってしまって、家でぬくぬく毛布に包まりながら、本を読んでいます。時折、映画も鑑賞します。人に会いたいとか、寂しいとか、そういう感情が吹き飛んでいることが幸いであり救いというか、こんな状態で誰かと会うなんて、外で会うなんて、考えるだけで恐ろしい。なんてことをいいながら、本当に親しい方とは飲みにいったりはしている訳で。うーん、やはり吾輩は、人が好きなんだなぁ。と思わずにはいられないのだった。

 

 会社と家との往復、ひっそりと家の中で生活を送る日々。たとえば自分が在宅勤務になったりすれば、本当に誰とも話さない一日が何日も続くのだろうな。そういうことを考えると、やはりどうしても”会話”というものが愛しい。どうしようもなく、社会的な生き物だ。本を読むことも、著者と会話をする感覚。映画を観ることも、感情を投影させるような感覚。誰かと会うことも、五感をフル活用しながら感覚的に会話にのめり込む。結局のところ、一人の人間として、誰かと関わっていたいのだ。

 そう考えると、逆に一人の時間、一人の空間がとても贅沢なものに思えてくる。制約は、人間にとって最高の蜜となる。毎日浴びるように飲むお酒よりも、たまに少しだけ飲むお酒が美味しい。毎日誰かと会話をしていると、会話内容の密度が減ってしまうというか、その分本当にどうでもいい話しで埋まってしまうというか、そんな感覚がある。充分な間隔を設けてお話しするからこそ、会話の密度がはちきれんばかりに詰め込まれ、より深い部分で会話することができる。一人の時間はアナログでの会話が存在しない状態なので、次回誰かと会ってお話しするときには、とんでもない幸福感に見舞われることが、多々ある。

 

 本調子への渇望。「そもそも本調子ってどんな感じだったっけ?」というような具合ではあって、心身ともにずっしりと重いわけではあるのだけれど、今日もなんとなく、生きています。自分が死んでも誰にも関係がないことだよな、って考えがそれはもう頻繁に浮かぶのだけれど、その考えを覆すことは未だにできなくて、仕事も世界も人間関係も、全然全然問題なく回っていく。そんな確信が心の中にある。まぁ、そう考えることで気楽になれる部分もあったりして、唯我独尊で生きていけたりもする。つまるところ何が言いたいのか、どのようにして終わればいいのか、間違いなく迷子ではあるのだけれど、一つだけ言えることは、久々に書くと、やっぱり楽しいなぁ、ということ。もうこれだけでいいんじゃないか、それ以外になにも必要ないんじゃないか、と思ってはみても、世に存在している(していた)誰かとの会話がないと、なにかを書く事はできないよな。そんな訳でこれからもきっと、静かな部屋のなかで、誰かとの会話を求めながら、少しだけ息苦しく生きていくのだろう。会話相手は自分自身かもしれなくて、これを読んでいるあなたなのかもしれない。言葉があって、日本語が存在して、本当によかったと、軽やかな安堵を覚えた、冬の夜。