[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0292 敗北とスコッチ

 

「あらら、今日はほんとにダメだわ。」

 

 起きた瞬間から24時間の敗北を感覚的に思い知らされるような、そんな一日ってありませんか? 雨がコンクリートを打ち付ける音で目が覚め、起き抜けの頭で静かに絶望を思考する。脳内が見事に濁っているというか、心を掃除機でずっと吸い続けられているというか。ただひたすらに違和感、ちょっとしたバグが発生していて、泣きたい思いを嚙み締めながら、まだ温かいベッドにサヨナラを告げる。

 

 こういう時に限って。絶対に違う、タイミングが間違っている。間違い過ぎて、寧ろ正しいまである。しんどい時に限って、しんどい出来事がのしかかってくるから困ってしまう。類は友を呼ぶというのだろうか、しんどそうな人間にはしんどそうな人間がシンパシーを辿って抱き着いてくる。数式としてはー(マイナス)同士を掛け合わせれば+(プラス)になるけれど、現実世界ではただお互いに状態を悪化させるだけだ。「頼むからやめてくれ、それはいまじゃない」という願いが香ばしい腐臭を放ち、それに引き寄せられ、異なるしんどさが心の扉をノックする。というか、扉をぶち破ってくるものだから、最早あきらめることしか出来ないのであった。

 

 多方面に散らばる思考がしんどい。考えなくてもいいことを、無意識に考えている。そして、結果的に不安になって、その不安からまた別の思考へと派生する。でました、ウロボロスよろしく、負のループでございます。思考っていうのは実体が無いものだから、場所や時間を選ばずいつでもどこでも行えるそれは素晴らしいものなのだけど、上手く制御が出来なくなった時には、それはもう中々に苦しいのである。皆さんも、同じような経験をされた方、多いと思う。こういう時って、どうすればいいのだろう。「好きなことして気を紛らわす」「人と会って話しを聞いてもらう」「とにかくたくさん寝る」等々、インターネットには様々な対策が記載されていて、そのどれもが天井に張り付いたままの埃同然のように思える。とってもとらなくても、そこまで変わらない。天井だから普段は視界には入らないし、無理して取ろうとして、踏み台から足を滑らせて負傷してしまうかもしれない。それならば、何もせずに、ただジッとしている方が良いのではなかろうか。でもでも、停止している時にこそ思考の本領発揮みたいなところがあって、何にせよ、我々は思考に打ち勝つことなど不可能なのかもしれない。

 

 止まることを知らない思考の濁流に圧迫されている時、ふとスコッチが飲みたくなる。ストロングとかじゃ物足りない、度数が強い酒を本能と直感が求めている。それにはきちんとした理由がある。決して、自暴自棄になっている訳ではなくて(それも少しはあるかもしれないけど)、スコッチを飲むと、ギュウギュウに切り詰まった思考が弛緩するような感覚を得る。それは酩酊の効用が生み出した一種の解放というか、単純に、その感覚に救われるんである。考え過ぎてメモリが爆発しそうな脳みそを、少しだけ解像度を下げることによって、休ませてあげる。こういう時にアルコールは便利だなぁと思う反面、その解放感には恐ろしい依存性があることも事実で、いざという時の特効薬というか、そういう感じで捉えている。風邪を引いた時にはとりあえず葛根湯を飲むみたいに、考えすぎている時にはとりあえずスコッチを数杯体内へ流し込みたい。

 

 最近はラフロイグが好きで、BARに行った時は必ず注文している。「これ、家で飲めば安上がりで何杯も何杯も飲めるよなぁ」なんてことを毎回思うのだけど、そんなことをしたら在宅アル中に逆戻りする未来が神々しく輝いて見えるものだから、その考えが浮かんではソッと蓋をしてきた。こういうのって、ガブガブ飲むものではないし、BARという非日常空間で嗜むからこそ美味いのだ。何度も自分にそう言い聞かせてきたのだけれど、それも限界をむかえたようだ。「もしかすると、現在の自分なら、家でも大人の飲み方が出来るかもしれない」なんてことを思うようになって、一度そう思ってしまうとその考えが間違いなく正しいような気がして、ある日、仕事の帰り道にラフロイグをボトルで購入してしまった。

 晩御飯という名の栄養摂取を手早く済ませ、お気に入りであるバカラのロックグラスに氷を投入する。カランカランという音だけで幾らかのドーパミンが放出され、いよいよ私はラフロイグを開封した。瞬間的に、残酷な香りがキッチンを包囲する。気分が上がる、もう間違いなく幸せな未来が目の前にある。グラスへと丁寧に液体を注ぎ入れる。感覚としては貴族。やはり高価なアルコールは、それ相応の価値があるものだ。

 少し長めの一口、喉へ流し込んだ。途端に違和感が脳を駆け巡る。あれ、あれ、えっ、なんで? 驚くほど不味かった。目の前にあるのは間違いなくラフロイグ、大好きなラフロイグ。なのにどうして、コップに注がれた液体は自分を困惑させるのだろう。アルコール度数43%、数値としては酩酊への最短ルートのように思えたそれは、ただ私を冷静へと導いた。結局、ほとんどそれに口をつけることなく、その日は幕を降ろすことになった。

 

「BARという非日常空間で嗜むからこそ美味いのだ」

 

 自分の考えは間違っていなかった。それでいて、空間だけではなく、他の要素があることにも気が付いた。適切な分量、アイスピックで削られた氷、それを施すバーテンダーとの会話。それら全てが合わさって、初めて美味さを感じることを知った。液体を購入して自宅でそれを呷るという行為は、他の大事な要素をすべてそぎ落としてしまっている。やっぱり、お酒はお店で飲みたいと思った。ハイボールとかビールとかも同様で、家で一人飲んでいても、最早幸福が生じなくなっていた。結論として、自分はお酒が好きだけど、誰かと一緒に飲むお酒が好きなだけなのだった。だからといって、お酒を飲むために誰かを求めることは違うと思っていて。それならば、BARにいけばよくて、あくまでアルコールは会話を柔軟にするツールという認識が現在の自分には浸透している。寂しがりやは悪いことでしょうか? 誰かと話したいと思ってしまうことは罪なのでしょうか? 求めてばかりいるから、いつまで経っても一人きりなのでしょうか。

 

 大好きな知人は「お酒を飲まないと眠れない」と言い、わたしは「お酒を飲むと眠れない」と言っている。そんな会話をしている瞬間が、わたしはとても幸せです。そのような瞬間には、深く思考を巡らせることもなく、生活のなかで一番開放的でいられる気がする。眠そうな知人を横目に見ながら、スコッチを少しずつ流し込む。時折、そんな幸せな瞬間が訪れるこそ、いつまで経っても人生を諦めることができないのかもしれない。最後まで、いつまでも、バカみたいに、なにも考えずに笑っていたい。