[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0283 肯定的な人形

 

 気が付けば、家でお酒を飲まなくなっていた。

 

 何度やめようとしても次の瞬間にはコンビニエンスストアに向かっていて、手にはストロングゼロを持っている。素面で生きることなど不可能だと思っていた。いつかきっと、自分は滅びてしまう。己の意志で破滅に歩みを進めているような、ずっとそんな感覚に付きまとわれていた。

 

 考えることが怖いと感じる瞬間、皆さんにはありませんか? わたしはそんな瞬間ばかりで日常が構成されていました。深く考えれば考えるほどに、細々とした些細なことが気になっていく。叶うのならば、何も気にせずに過ごしたい。もう少し鈍感に生きることが出来ればと、現在の自分をまた少しだけ否定する。

 

 お酒を飲むと、少しばかり思考が和らぐ気がするのです。難解に絡み合っていた何本もの糸が自然と緩まり解れていくようで、安心する。その場しのぎの安堵を得るために、毎晩酒を求めるゾンビと化す。体臭にはアルコール成分が混ざり、飲めば飲むほどにまともな考えを遠ざける。もっともっと解れて、いっそのこと何もなくなってしまえばいい。その果てに生まれた唯一であり単純極まりない考えがこの世からいなくなってしまうことで、酒を飲んでは死ぬことを考えて、死ぬことを考えるために明くる日も酒を呷る。虚しい負の輪廻を完成させてしまったわたしは、もう書くこと以外には何も楽しさを見出せなかった。

 

 強迫観念に駆られて飲む酒の味は寸分も記憶に残っていない。そりゃそうだ、記憶が残らない程の酒量を内臓に流し込んでいるのだから。そこまでアルコール耐性がある訳ではないのにね。弱いくせに、強がってまだまだこれからと踏鞴を踏む。滑稽だと自分では理解しているつもりなのに、酒が抱いた理解を破壊する。もうどうしようもなくなって、誰かに話したいとも思えなくて、それでもこのまま感情を閉じ込めておくのは限界で、見えないなにかに縋るように言葉へ落とし込んだ。毎日書いて、飲みながらも書いて、泣きながらも書いた。紙のノートにも感情を吐露した。死にたいと思ったときは「死にたい」と書いた。補足として赤ペンで「別に無理して生きなくてもいい」と記した。なんとなくそれは、小学生の頃に取り組んだ国語感想文を彷彿とさせた。

 

 やめようと思ってもやめられない、逃げたいと思っても逃げれられない。迫りくる不安に怯え続ける毎日がただただ苦痛だった。すべて投げ出していなくなりたかった。それでも自分を諦められなかった。そのうちご飯の味がしなくなった、自分がどうして生きているのか、そのようなあらゆる疑問がどうでもよくなった。

 

 不安から逃げようとするからどこまでも追いかけてくるのであって、もういっそのこと不安感情にまみれてしまえばいいのではないかと思い至る。そもそも、思考の隙間を狙って不安が発生するのだから、入り込む余地がないほどに日常を忙しくすればいいのではないか。朝起きてから夜眠るまで、ずっと動いたり、何かを思考していれば、不安感情に煽られることもないはずだ。日常の時間管理を徹底して、行動を細分化してみた。やりたいことをやる、その為に必要のないことを排除する。試行錯誤を繰り返す内に日常が活性化されていき、徐々に精神が快活になっていった。

 

 ふと我に返った時に、一人で酒を飲んでいる時間がないことに気が付いた。本を読んだり、映画を観たり、友人と会ったりしていると、家で酒を飲むことを忘れていた。友人と会った時には存分にアルコールを取り入れるけれど、別になくても構わないと思えるようになった。お酒はあれば楽しいけれど、素面でも踊り狂えることを学んだ。選択的飲酒、これをソーバーキュリアスと呼ぶのだろうか。あえて飲まないという選択は、実に贅沢なものだということを思い知った。

 

 わたしは、現在の生活スタイルが気に入っています。時に精神が悲鳴を上げる時もあるけれど、程度としては以前よりも軽くなっていて、酒や人に逃げることも無くなった。自分には絶対に必要だと思っていたものが、いざ手放してみると大したことがなかったり、人生にはそのような思い込み=過信が散りばめられている。本当に必要なものなんて、何一つとして存在しないのかもしれない。強いていうのなら、精神の入れ物としての肉体さえあれば、それだけで良かったのだと思える。この身体さえあれば、そして、数人の理解者が生きていてくれれば、もうそれだけで、わたしは己の人生を悔いることなく、微笑を浮かべていられるだろう。