[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0282 空を見上げれば

 

「なんかもうどうでもいいわ」

 

 そんな時には日常が忙しくて睡眠が足りていないのかもしれなくて、それ以上に愛が不足しているのかもしれない。生活が退廃的になればなるほどに人は容赦なく離れていく、落ち込む、そして以前よりも頑強な”どうでもいいわ"が完成する。結局のところ、自分一人の存在というのはどうにもちっぽけなものであって、いてもいなくても何の差し支えもないような、地球の循環の一部分なのだと考えると、どうしようもなく遣る瀬無くなる。ここから脳内では「どうして生きているの?」の堂々巡りが開始され、生きることについて考えれば考えるほど頭の中がグチャグチャになり、乱れた脳内で練られた思考は必ずといっていいほど「死にたい」にたどり着くのだから不思議なものだ。

 

 どうでもいいからこそ成功する例がある。なるようになれ、と半ば投げやりにやったことが結果を残すこともある。深く考えずに肩の力が抜けていると、物事は潤滑に流れやすい。なにも行動に起こさなければそれは成功も失敗も生み出さないから、たとえどのような状況であっても行動に移すことは忘れないでいたい。良くも悪くも、動けば何かが変わる。時にはジッと耐えることも大事な場面があると思うのだけれど、決してそれは惰性ではなく”動かない”という一つの行動を選択している訳なので、結局わたしたちは死ぬまで動き続けるしかないのだった。

 

「死にたい」にたどり着いた時、「死ぬ」or「死なない」の選択を迫られることすらも大儀に思えて、一旦考えることを放棄しようとする。自分の内側から出てくるものを忘れようとする。けれども、いつまで経っても消失しない念慮が頭の中をグルグルと回っていて、そのことがとても苦しいと感じる。自殺願望は人間の精神防衛反応の一つなのに、生物の在り方としては誤っている。交尾後にメスの栄養となる為に自分自身を差し出すカマキリのオスのような、合理性が死に紐付いている訳ではない。全ての生き物は種の繁栄を元に生きることを目的としている。それなのに私のような人間は、心の中にある苦しさから、これからも続く世界から、逃れるために命を絶つことを考えている。

 

「あまり深く考え過ぎないで」

「美味しいもの食べて今日は早めに寝て」

「苦しいことがあったら何でも言って」

「大丈夫?」

「大丈夫?」

「本当にあなたは大丈夫?」

 

 優しい言葉が心をサクッと刺すようで程よく痛い。もうなにも言わないで欲しい。もうわたしのことを忘れてほしい。そんなにも優しい表情を浮かべないでほしい。側にいてほしいと願うこと、話しを聞いてもらいたいと願うこと、愛してほしいと祈ること。その何もかもを望まなくなってから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。役立たずの産まれてきた後悔なんかよりも、今この瞬間だけを生きることが自分にとっての支柱となる。だから苦しみに浸る時間も大切で、悲しみが湧き上がることは必然なのだった。

 

 人生の中にはそのような一日が幾らか散りばめられている。そう考えるとまた少しだけ気分が落ちる。溜息をつきながら明ける空を見上げたら、たくさんの小鳥が視界を横切った。綺麗な音色を空に響かせていた。その音だけが心にとっては安らかで、ほんの少しだけ、締め付けが緩くなったような気がした。今日も世界は、素知らぬ顔をして回っている。