[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0184 大丈夫の魔法

 

 「思ったより、大丈夫そうでよかった。」

 

 そう言われると思ったより大丈夫そうに映っていて良かったと安堵する。思ったより大丈夫じゃない自分自身を無かったことにして、思ったより大丈夫な見せかけの自分が全てだと思い込む。そうやって騙し騙しの日々を送る中で大丈夫な自分を取り繕えない瞬間があって、そのたったワンシーンで失望されて誰も彼もから見捨てられた気持ちになる。

 

 排泄をしたいからトイレに向かうように、心配をかけたくないから大丈夫そうに振る舞っているだけで、これはもう根源的な欲求というか、「人に迷惑をかけてはいけません」という幼少期からの刷り込みが織りなす一種の弊害なんだと思う。別にかけてもいいのにね、迷惑。判断するのは相手自身なのに、自分の尺度でこれは迷惑に分類されてしまうかもしれないと畏怖している。要するに、判断されるのが怖い訳だ。あほらし、馬鹿みたいだと思っていても、刷り込みが洗脳の如く盛んに働いて心を食い止めることが出来ないままでいる。

 

 死にたくないから生きている訳ではない、それならば何故生きているのかと問われると「わからない」の五文字しか喉から繰り出すことが出来ない。きっと生活そのものに意味などないのだ。子孫を残すことが生物学的に正しい行いなのだとすれば、人類の大半が正しくない一日を過ごしていることになるんじゃないか。正しさは時に暴力として作用するし、暴力は当たり前のように他人を傷つける。

 

 そんなのって、とても悲しいじゃない。別に何となく生きて、何となく死んでいけばいいんだよ。それと同じように、時には迷惑をかけながらも、泣きながら生きていたっていいんだよ。凝り固まった方式なんて燃やしてしまって、火を囲みながら温まればいい。火の中に楽しさや気持ち良さがあるのならば、私はその快楽の中で踊り続けたい。生きているだけで誰かしらに迷惑をかけてしまうんだから、理性や正しさなんて捨ててしまえればいいのにと思う。

 

 何もかもに対して反応や判別を施してしまうから苦しくなる。もう少しだけ頭の中を軽く出来ればいいのにな。「何故」や「どうして」を求めれば求めるほどに自分の首が強く締め付けられるから、何も考えずに生きていたい。将来のことも、過去のことも、自分自身のことさえも。何もかもを放棄して、温かい火の周りを駆け回りたい。そう願うことさえも物事を深く捉え過ぎていると指摘されるのならば、もうわたしに思考を放棄する資格はありません。強がりも弱がりも、その何もかもを持ち合わせていなかったのでしょう。それが残念で仕方がありませんね、人生。