[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0203 脆羽の蛹

 

 なるべく傷付かないようにする為に、安定した踏み場を選び抜き進んだ一歩。また同じようにして次の一歩を踏み出し、私は呼吸を繰り返している。

 

 時折、体力が続かなくて息切れを起こしてしまう一歩もあって、そんな時に「大丈夫」と声を与えてくれる人がいればどれ程までに良かっただろう救われるだろうかと考える。ほらまたすぐにパニック起こして、その度に自分への失望を募らせてる。「仕方ないよな」と消えそうな声で吐き出した諦めは、自身の鼓膜には届かなかったみたいだ。あぁあゝああぁあ、それでも未来が生命を強迫するかのように、熱くなる身体を、早くなる鼓動を、本能が必死で逃走を試ろみている。

 

 最早、踏み場の安定感は損なわれていて、もう何処にどうやって進めばいいのかわからないや。Googleの検索窓に[ずっと死にたい]とか[自殺のやり方]みたいな単細胞ワードを入力すると、必ず"あなたの声を聞かせて"って表示が出てくるし、その一言が馬鹿らしくて少しだけ心の重みが消化される気がする。命のホットラインは、きっと人によって形を変えていて、この世の中には無数の多種多様な生命線が張り巡らされているのだろう。私にとっての生命線って何だ?あなたにとっての生命線って、何なのですか?。何が人間を生かしているの、誰が人間を動かしていて、その先には一体何が存在しているというの?。

 

 繋ぎ止めたいと思うものが、何一つとして存在しない。"守るべきものがある人は強い"ってよく耳にするけれど、だからこそ私はいつまでも弱いままなのだろうか。自分を守ることでさえ精一杯なのに、その状況下で一体なにを守れるというのだろうか。全ては妄言で推測の自己欺瞞を、わたしはどこまで続けるのか。そんなことを世間に問いかけても大衆は苦笑いを浮かべるばかりで、そりゃあそうだよな、だから自分の中で最適解を見つけるしかないのだと思う。例えそれが、妥協案であったとしても。

 

 自害が過ちではなくて、寧ろ一つの選択肢だと捉えている私は、その何もかもが誤りの中を生きているのでしょうか。ただ意味もなく今日を生きたことが、明日を生き永らえることが苦痛で堪らなくて、その痛みに耐え続けることが正しさなのだと思われますか?。ふとした瞬間に救いの手は差し伸べられるかもしれないけれど、その瞬間、その手がなければ、ただただ生き地獄が延長されるだけであって、わたしの意味は何処に存在しているのでしょうか。

 

 陽射しが眩しくて外に出られないと言うのなら、地下の暗闇に世界を広げていけばいい。世界なんてものは自己満足で構わない、思うがままに、あるがままで私を一から作り上げて。繭に身を包んだ蛹のように、"その時"がくるまでジッとしていればいい。誰にも気づかれることなく、だからといって息を殺す訳でもなく、堂々としていればいい。それでも苦しくなった時には、ウイスキーをショットで飲み干せばいい。それでも苦悩を忘れられなかった時には、駄目な自分を掲げながら、駄目な人生のまま、駄目なりに終幕を告げればいい。それさえも許されないのであるとすれば、私はどのようにして将来を歩めばいいのでしょうか?。

 

 お願いですから、私に健やかな生き方を教えて下さい。