[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0261 悲観的な眺望

 

 夕暮れ時、曇り空の中を歩いていた。明るいのに、いつもより少しだけ暗い。夏の日差しが苦手な私は、それだけで少しばかり心が躍る。それでもしばらくするとジットリ肌を伝う汗に辟易しながら、ただひたすらに家路を進む。

 しばらく経つと、ある瞬間、雲の隙間から朱色の世界が垣間見えた。それは正しく夕焼け、これに空が覆われてしまえば世界そのものが焼けてしまうような、そんな鮮やかさだった。気分が沈むと否定されてばかりの曇り空の向こう側は、息をのむような艶やかさが広がっている。そのことが本当に不思議だった。何となく、それだけで今日は生きていてよかったと思えた。

 

 やっぱりわたし達人間は、その中でも特に私のような人間は、世界の部分的な側面しか視ていないのかもしれない。多方面からの視点を、いつからか忘却してしまったようだ。そのようなことを、夕焼けが静かに教えてくれた。日々、次々と発生する苦悩も、上手くいかない人間関係も、流されるまま続けている仕事も、もう手にすることは出来ない家族も、指の隙間からこぼれるばかりの愛も、広がる空の下ではミジンコ同然のちっぽけな存在であって、暑い暑い暑い、苦しい苦しい、悲しい、ばかりを繰り返していればその内に干乾びて死んでしまう。宇宙規模で考えるとマジで存在しているのかさえ危うい生命体の一個体で、割とドライに四捨五入すれば『私』なんて存在は最早いてもいなくても変わらない、どうでもいい存在なのだな。

 これは自分を卑下しているとか無下にしているとかそういうことではなくて、あくまで客観的に捉えた際の真実というか、まぁそんな感じなのだった。そんなミジンコでさえも、死んだら悲しいと言ってくれる人がいて、それって本当に凄いことだよなと思う。僕がいようがいまいが、何一つとして世界は変わらない。現在住まわせていただいている借家も他の人間が借りるだろうし、会社も人員を補填すれば問題なくて、わたしがいなくてもあらゆるコンテンツや芸術作品は次々と生み出されていく。テクノロジーは発達を続ける。良い意味でも悪い意味でも世界は勝手にいつまでも回り続ける。それなのにも関わらず、「悲しい」という言葉をいただけるのは、本当に有難いことだ。

 

 だからといって、「悲しませない為に生きる」ということにはならないのだけれど。私は自分のために生きていて、その上で生きることそのものが自分の為にならないと悟った時に、一体どうするのだろうかと考えることがある。何も変わらないのなら、いなくなってもいいじゃんと思う自分。何も変わらないのなら、生きていればいいじゃんと思う自分。どちらも不気味なほどに重力が軽くふわふわと浮いていて、未だにピースが当てはまらないままでいる。どうしていつまでも他人事のように考えていて、”誰か”に答えを委ねているのだろう。

 

 その”誰か”に自分自身が当てはまった時に初めて、生きることについて理解を深められるのかもしれない。