[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0244 わたしの中の邪悪

 

「お金がない」「しんどい」「辛い」「苦しい」

 

 こんなことばかり言っていると幸は逃げていくばかりか不幸を呼び込むだけなのに、いつの間にか自分がそのような言葉を吐く人間になっていた。小さい頃から何度も同じことをこの耳が聞いていた。実際にそう言っていた人は身動きが取れなくなってしまって、動けなくなると心の循環が難しくなるから、病んでしまった。そして周りからは綺麗にお金が無くなった。

 

 これは一種の呪いなのかもしれない。そんな馬鹿げた考えが頭の中を走り回るけれど、間違いなく自分自身の問題だからまだ大丈夫と平静を取り戻す。わたしは私の選択によって言葉を使用している、ただそれだけのことだ。誰だけ苦しくてもその想いを言葉にしないままでいることは可能だし、違う形で表現することだって出来る。『全部自分が悪い』そうやって思い詰めることによって日常が不機嫌に汚染されていく。『いつまでそうやっているつもりなの?』そんな自問自答を繰り返す。

 

 わたしが応援したいと思うのはどんな人だろうと考えた時に、”とにかく楽しそうな人”が思い浮かんだ。自分がいいなぁと思う人は、どこか楽し気な雰囲気を持っていることが多い。創作に一生懸命な人、物凄く美味しそうにお酒を飲む人、仕事を心から愛している人。様々な苦悩を持ち合わせているはずなのに、それを上手く昇華出来ている人。自分もそうなりたいと思った。生きている限りは楽しそうに生きていたい。時には泣くことも大事だけれど、表面上は馬鹿みたいに笑っていたい。

 

 感情が消失したかのような無表情を浮かべていれば、そりゃあ周囲から人が離れていくわな。たまに気分が乗った時にだけ”ご機嫌な自分”を演じてみることがあって、そういう時は明らかに周囲の反応が変わることを痛感する。でもすぐに疲れてしまうから元通りになってしまって、そんな自分自身に辟易する。日々を機嫌良く過ごすことには強い意志力が必要で、対して不機嫌は惰性の成れの果てとも言えるだろう。幸福と不幸も同じような関係性で、意識しないとそこにある幸に気付くことは難しい。要するに、幸福そうな人や楽しそうな人というのは、自制心や人間性を生き方で示している。その力強さに人間は魅了される。

 

 もう自分を痛めつけることは止めにしませんか? 世界を憎んで生きることを止めにしよう。到底一人では生き抜けないわたし達人間だから、孤独に苛まれたり、誰かと比べて落ち込んだりするのでしょう。共同体の一部分であって、宇宙から見ればちっぽけな存在の有機物が、今日もどこかで泣いている。なにもかもが無意味の中で、ある程度の自由を獲得していて、それでも苦しいと嘆いていて。人間ひとりがいなくなったところで、世界は何一つ変わらない。真夜中は知らん顔しながら星屑を散りばめる。だからこそ、そのほとんどが無意味だからこそ、笑っていたい。確固たる意志を持って、笑え。どれだけこの世に憎しみが蔓延したとしても、自分だけはご機嫌で世界の中を歩いている。口笛を吹きながら、時には寄り道をしながら、何もかもを笑い飛ばしてしまえばいい。その時に初めて、本当の意味での喜劇が始まるからさ。