[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0243 すべての悲劇によろこびを

 

『人生とは、愛そのものだと思うのです」

 

 

 あれよあれよという間に深く沈んでいて、それに気づかないまま日常を過ごしているものだから、限界を超えた時に初めて自身の異常が脳にのしかかる。ただ歩いていただけなのに、突発的に叫びたくなった。死にたい! おかえりなさい、希死念慮。これよりも『衝動的』という表現がふさわしい場面があるのだろうか。縄で首を括っている自分自身がフラッシュバック、脳内でエレクトリカルパレードが開催される。おいおいおいおいおいおいおいおいおいおい、やめてくれ、衝動を抑え込むことが難しくて、でも誰にどう頼ればいいのかわからなくて、ぶつけたくて、ただガムシャラに衝動を吐き出したくて、唯一わたしに残された選択肢が書くことでした。

 

 キーボードをタイピングする手指が震える、物凄い勢いで感情が回転している。一旦自分自身を落ち着かせなくてはならない。お願いします頼みますから感情よ止まっておくれ。そうだ、身体と感情を少しだけ乖離させればいいんだ。閃いたわたしはドラッグストアで買い込んだストロングゼロを喉に流し込む。一瞬の落ち着き、沸騰寸前のゆらめき。こういう時にアルコールはとても便利だなと思う。”気が狂う”というベクトルを別のものにすり替えてくれる。それでも僕はなにかを言葉にしたかった、どうしていいのかわからない、眠りたくない、明日を予感したくない。

 

 そんな状態でも何事もないように平然と振る舞うことは容易くて、絵文字を入り混ぜながらLINEでの返答を送ったりしてる。こういう時に絵文字って便利だなって改めて思う。文中に絵文字を使用するだけで、ちょっぴりポップに映るのだ。後々見返すとそのポップさ加減が酷く滑稽に思えるのだけれど、どう考えてもその滑稽さが世界を憎んでいるようには思えないから自分自身で安心する。偽ることは簡単だ、大丈夫ですということはとても簡単だ。だから人間は苦しんでいる、大丈夫な時と大丈夫じゃない時の区別が、当の本人でさえわからなくなってしまう。

 

 親にしか言えないこと、親だからこそ言えないこと。これが友人になったり他人になったり、常日頃微細な判断が繰り返される心の中で、混乱して答えが浮かばない時にはその悩みだったり苦しみを誰に吐き出せばいいのか。「僕になら迷惑をかけてもいいんだよ」って相手には伝えたいと思っているけど、自分の場合になると別問題だ。厳しすぎるのではないか、もう少しだけ自分を甘やかしてもいいんじゃないか。どうやって甘やかせばいいのかわからないから困ってるんじゃないか。”助けて”の三文字が送信できないから苦しいんじゃないか。絵文字を携えれば問題ないのか? 重苦しくなければ受け入れてもらえるのか? そんなもの大問題だらけだ。だから自分と向き合うことでしか解消できないんだ。だからいつまで経っても、苦しいままなんだ。

 

 夕暮れの中で死を願うことも、朝日が登る最中に明日を望むことも、対して変わりはないのだろう。周りの方々が次々とお母さんやお父さんになっていく。わたしが子を見ても愛おしいと感じるのだから、親の立場になれば言葉通りかけがえのない存在なのだろう。その分苦労困難があるのは承知の上で、それでも愛情の関係性が伝わってくる。本当に素晴らしいなと思うし、幸福を分けていただいた気分になって温かい気持ちになる。他人ながら、お力添えは難しいかもしれないけれど幸せになってほしいと願っている。

 わたしはよく『生まれてきてしまって、ごめんなさい』と言っている。そもそもの存在に対する自己否定、そんなことわかってる。でも、破綻した関係性の中で”ありがとう”だなんて嘘でも言えない自分がいる。各々が別々の道を歩んでいて、別の家庭を持った人間、精神を病んだ人間、未来に向かって歩く人間、死を願う馬鹿。自己肯定感とかそういった次元の話しではなくて、もっと深い根源的な話しなんです。わたしは割と自分が好きです。好きじゃないと文章なんて書いていません。けれども、その好きな自分が生きながらえることを望んではいないのです。もうこれ以上、これ以上は辛いものがあります。

 

 ずーっと同じことの繰り返しだ。落ち込んで沈んで、元気になって、また沈みきって、また少しだけ元気になって。そんなことばっかやってたら、あっという間に寿命を迎えるのでしょうか。どこかで読んだ「自殺をした人はその日までが寿命だったんだよ」という言葉をよく思い出します。マリリン・マンソンへの「あなたの曲を聴いて自殺する人がいますが?」というインタビュアーからの問いに対しての「そんな馬鹿は死んで当然だ」という回答を同じくらい思い出します。どれもこれもが正しくて、本当の意味での幸せは優しさの中にしか存在していなくて、すべての悲劇は錯覚に過ぎないのだろう。自分の中で生み出された悲しみや苦しみや痛みに、少しばかりの喜びを。いまのわたしには、そして歪みきったこの世界に対して、そのように思うことが精一杯のように感じています。