[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.095 ヒロインが生み出したはずの悲劇

 

 生き辛いという事実、または思い込み。

 

 思い返せば、私は自分自身を苦しめることが得意でした。”でした”、だなんて過去形にしてしまったけれど、現在進行形でもあります。時に、自罰的でありたい、自傷的でありたいと思ったりして感傷的になることがある。

 

 これまで、その声に従いながら生きてきました。自分の心を、ボコボコに殴ったり彫刻刀で抉ったりその状態で放置して干からびさせたり、そういったことを繰り返しながら心の歪さをデザインしてきました。

 

 何故そんなことをしてしまうのか、自分でもわからない。それは自分自身だからこそ見えない部分なのかもしれない。過去にある後悔やトラウマ、膨大なコンプレックスが自身を不幸へと先導しているのでしょうか。私が楽に生きる選択を、私自身が赦さない。苦しみながら死にゆくことを、ひたすらに望んでいる。まるでそれが一縷の望みかのように、考えていると馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 

 わたしは、この生き辛さを、不自由を選択しているのだと思います。自分の意思で、選び取っている。何故ならば、その不自由さを”必要なもの”として思い込んでいるからです。頭では理解出来ているのに、心が追いついてくれない。そちら側を進めば、間違いなく地獄へ到達してしまうのに、わたしは自ずからその道を突き進み闊歩している。

 

 [目の前に”楽な道”と”険しい道”の二つの道があったなら、迷わず”険しい道”を選びなさい]なんてことが仕様もないビジネス書で散々叫ばれている。険しい道を選んだ方がより経験値を積むことが出来るからなのだろうけど、その険しさに押し潰されてしまっては元も子もない。それならば、楽な一本道を選択してスキップでもしながら気楽に人生を進めていく方がいい。

 

 心の癖とは厄介なもので、中々自罰的傾向が消えてくれない。自分自身を苦しめたい、理由はわからない、ただの思い込み、それすらも勘違いなのかもしれない。楽しくハッピーな自分よりも、苦しんでいる自分のことを愛している。際限なく感じたいだけ、その情緒をいつまでも。

 

 美しくないから美しく在りたいと願う。苦しんでいないから、苦しめたいと思う。いや、もう充分苦しんでいるのにも関わらず、まだまだ足りない?。もしかすると、わたしはとんでもないマゾヒストなのでしょうか。それとも、自分自身に刃を向けるサディズムの衝動を抑え切ることができないのでしょうか。

 

 きっと、そのどちらでもあるし、どちらでもない。ただ一つだけ確かなことは、真っ当な愚か者だということです。

 

 自分自身で創出した苦しみ、選び取った苦しみならば、これ以上嘆くことは許されない。笑え、そんな現状さえも笑ってしまえ。辛い時に無理矢理にでも笑顔を作ると、少しだけ気が楽になるものです。笑いながら、泣け。涙を流すことは悪いことではないのです。寧ろ、流せるのなら頬を伝わせておいた方がよい。そうすることによって、ほんの少しだけ其処に美しさが芽生えると思うから。

 

 久々に、少しだけ精神が揺らいだ

 安定していなければならない訳ではない

 たまには苦しみに浸ることも悪くはない

 

 悲劇を味わうことも、悪くはない。