[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.037 [0570-064-556]

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 純粋な好奇心から自殺や精神病に関する書籍を読むことが多いのだけれど、いずれも共通して記載されていることは良い意味でも悪い意味でも「家族」が当人に与える影響がとても大きいということ。自殺未遂者に関しては家族との関係性を変えなければ根本的な解決に至らない、とか、精神疾患に関して言えば”家族のサポート”や”家族の理解”といったことが頻繫に見受けられる。臨床的視点としての記述内容は理解することができる。しかし、どうしても素直に首肯することが出来ない自分もいる。

 

 家族関係の修復も、家族からのサポートを受けることも不可能な人間はどうすればいいのだろう。頼れるものなら頼りたい、けれど頼れない。友人を頼ったところで何も変わらない、残るのは話した事に対する後悔だけだ。共感してほしい訳でも、理解してもらいたい訳でもない。だとすれば、わたしは一体誰に何を求めているのか、もうそれすらもわからない。ずっとそう思い込みながら生きていました。

 

 わからないことをわからないままにして、あえて理解することを避けてきた。自分自身を理解することが怖かったです。素直になってしまうと自分自身の何もかもが瓦解してしまう様な気がして、希死念慮とかそういった類のものは知らんぷりするようにしてきました。自分自身に嘘を吐き続けていました。本当は誰よりも自分のことを解読できているハズなのに。「そろそろ素直になってもいいんじゃないかい?」といった心中の声が頻繫に聞こえてくるようになっています。

 

 周囲を見渡せば家族関係が良好な方が比較的多く、心が苦しい時には自分自身と比較してしまうこともあります。生み出されるのは絶望と不能感ばかりで、それも理解しているハズなのに自分自身の破滅思考を止めることが出来ません。もちろん傍から見れば良好に見える関係性も、当人の中では悩みの種が花を咲かせているかもしれません。人には人の苦悩があることを承知の上でも、家族との関係性について悩めることが羨ましいと思ってしまう。「親子喧嘩とかしてみたいなぁ」なんて妄想を進めるほどに後から虚しさが全身を覆うことになる。精神的な倦怠感、生に対して辟易してしまう。どれもこれも”ないものねだり”でしょうか。隣の芝だから青く見えるのでしょうか。わたしの芝は黒々と生い茂っているように映ります。

 

 こうやって文字に起こしてみると滑稽も甚だしいですね。自分自身でも可笑しくなってしまう。それでも、なんとなく文章にしてみたかったんですよね。「死にたい」って思ってもいい、言葉にしてもいいんです。少しでも生きてみたくなったら歩みを進めればいい、死にたい時はその場で一服して休憩としましょうよ。それでもまだ死を選ばない理由はいくつかあって、例えば、「来週友達と飲みにいく約束がある」とか「来月公開される映画が気になるから」とか「まだ読み切っていない小説が残っているから」といったことです。そんな些細なこと達に現在のわたしは生かされています。

 

 あとは、単純に自死を決行する勇気がない。自分の意志で命を絶つことって物凄い決断力=実行力だと思います。そんな自分でも、パニック状態が進行気味の時には”危ない”と感じることがあります。「この心の締め付け具合の延長上に自殺が存在しているんだなぁ」なんてことを後々になって、ふと思ったりする。普段からメタ認知(自分自身を客観的に視ること)を意識して過ごしているから辛うじて冷静な部分があるけれど、それすらも失われた時には自分自身が壊れてしまうのかしら、なんて意味のない想像を巡らせている今日この頃でございます。

 

 

 血縁者も、恋人も、友人も、知人も、医者も、薬も、そして自分自身でさえも、何もかもが霞んで見えて信じることが出来ないでいる。死んだほうがマシ、それなら生きてるほうがマシ、そんなのどっちでもいい。そんなことよりも、いまはこの苦しみを受け入れることだけで精一杯なんです。

 

はい、失格